上皇訴訟記2 補正の憂鬱


(上皇訴訟記1の続き)

*この話は当然ながらフィクションです。我が国の実際の法制度等を参考にしていますが、記載の正確性を担保するものではありませんし、登場する人物は実在の人物とは一切関係ありません。

 

皇紀2680年5月7日、大分地方裁判所民事訟廷係[1]訴状の提出を受け付ける係。に所属する裁判所書記官の雨森は緊張の面持ちで電話の呼出音を聞いていた。電話の先は九重高玄法律事務所である。

「はい。九重高玄法律事務所です。」

この女性の声に雨森は聞き覚えがあった。今朝、上皇の訴状を提出しに来庁した1人である。

 

朝9時30分頃、訟廷係に顔のよく似た2人の若い男女がやってきた。2人は見るからに高級そうなスーツを来ていた。弁護士もよく訪れるので、高級そうなスーツは珍しくない。しかし、2人が変わっていたのは白い手袋をはめて、いかにも正装らしい格好でやってきたからだった。しかも、男の方は漆塗りらしき黒い箱を捧げ持っていた。

2人は書記官室の視線が集まるのを確認するかのように、少し佇み、女性の方がおもむろに「インシの御成です。」とよく通る声で告げた。

雨森は「インシ」というのが「印紙」のことだと思っていたが、訟廷係の主任書記官の表情が一瞬にしてこわばる様子を見て、報道を思い出した。

女性が告げてすぐに、シルクハットをかぶり、モーニングコートに身を包んだ、初老の紳士がやってきた。上着には弁護士バッジが光っている。

紳士は若い男女の間に入って、「当職は畏れ多くも上皇陛下の命を受けた院使弁護士の九重高玄である。上皇陛下は当庁にかしこくも訴状を賜われる。謹んで拝受せよ。」と言った。

主任書記官はおずおずとカウンターまで進み出たところ、男が箱の封を解き(雨森はここで気づいたが、紫の紐でとめられていた箱の蓋には菊の御紋が描かれていた。)、中の書面を取り出した。そして、九重弁護士がこれを受け取り、主任書記官に交付した。

 

場違い甚だしい格好の3人は用が済んだと見るや、九重弁護士、男女の順に退室してしまった[2]通常は印紙と予納郵券の金額を確かめたり、提出書類に不備がないかが簡単に確認される時間がある。。残されたのは途方に暮れる書記官だった。

 

雨森は今朝の場面を思い出し、電話口の女性に告げた。

「大分地方裁判所民事訟廷係の雨森ですけれども……。本日、提出いただいた訴状の件で補正のご連絡なのですが。」[3] … Continue reading

「承ります。」

「あ、よろしいですか。まず一点目ですが、訴状の作成人は上皇ご自身」

ここまで言葉に出したところで、「一つよろしいですか」という女性の声が雨森の発言を遮った。

「あ、はい。なんでしょうか。」

女性の声には有無を言わさぬなにかがあった。

「『上皇』と呼ばれるのは不敬にあたります。『上皇陛下』とお呼びください。」

「……はい?」

思わず雨森は問い返してしまった。

「『上皇陛下』です。天皇の退位等に関する皇室典範特例法はご存知ですか?」

「い、いいえ。」

「この法律の3条2項ですが、上皇の敬称は『陛下』と法律で定められています。したがって、少なくとも法を誰よりも遵守すべき公務員であれば、『陛下』の敬称を付さずにお呼びすることは不敬に当たります。」[4]天皇の退位等に関する皇室典範特例法第3条第2項

「……すいません。では言い直しますが、訴状の作成人は上皇陛下ご自身ですか。通常、訴状は訴訟代理人が作成されることが多いもので。」

「陛下の御製です。」

御製の意味はわからないが作成人は上皇で間違いないと雨森は思った[5]最近では御製は天皇が詠んだ和歌を指すが、本来は皇族が作成した文書一般を指す。。一刻も早く補正の連絡を済ませたい。

「それでは次に管轄についてですが、こちら原告も被告も住所地は東京だと思われるのですが、管轄の関係を説明する上申書を作成していただけますか。」[6] … Continue reading

ここからが雨森にとっての本番だった。

 

雨森はこの電話をかける前、正午過ぎに所長から呼び出されていた。所長室では、問題の訴状への対応が検討されており、2つの民事部の各部長をはじめ、主要なメンバーがせいぞろいしていた。

「雨森君。君には上皇の訴状の補正連絡をしてもらう。可能限り管轄が東京にあることを指摘して、移送できるようにしてくれ。」[7]移送とは事件を別の裁判所にうつして処理させること。管轄が違うために移送するということもある。民事訴訟法16条1項。

所長はこれだけ言った。ついで民事2部の部長が、

「実は訴状提出前に最高裁から連絡が来ている。内容は『大分地方裁判所に管轄があることを確認の上、事件処理は他の事件と同様に取り計らうこと。』要は東京に持ってきてくれるなという趣旨だろう。」と補足した。

そして部長は続けて、「しかし、大分地裁でもできることとできないことがある。原告から東京に移送してくれと言われれば、大義名分が立つから。どうか頼むよ。」と言った。

通常の事件処理で言えば、民事2部の担当になるのだと雨森は思った。

 

雨森は電話口に続けた。「もちろん、管轄違いということであれば、東京に移送しますので、その旨の上申書を」

「あのちょっとよろしいですか。」また女性の声が遮った。

「上申書というのは『申し上げるための書面』という意味だと理解していますが、上皇陛下並びに院使は裁判所が敬意を払うべき存在であり、裁判所に払う敬意は通常はありません。したがって『上申書』ではなく『院宣』の形式でよいですね。」[8] … Continue reading

もう雨森はなんだって良かった。とにもかくにも上申書さえ来てくれれば、あとは裁判官がなんとかしてくれる……はずだ。

 

上申書は意外とすぐに送られてきた。

(続く)


References

1 訴状の提出を受け付ける係。
2 通常は印紙と予納郵券の金額を確かめたり、提出書類に不備がないかが簡単に確認される時間がある。
3 補正とは訴状の不備を修正すること。民事訴訟法133条1項に基づき裁判長が訴状審査をする権限があり、必要であれば補正命令を下す。なお、補正するよう促すことは、民事訴訟規則56条に基づき裁判長が裁判所書記官に命じた場合、裁判所書記官が行える。雨森の補正のご連絡はこの規則に基づく。
4 天皇の退位等に関する皇室典範特例法第3条第2項
5 最近では御製は天皇が詠んだ和歌を指すが、本来は皇族が作成した文書一般を指す。
6 全国各地にある裁判所のうち、どの裁判所に訴えを起こすかは実務上重要な問題になっている。民事訴訟の場合は、通常は被告の住所地か、債務の履行地(原告の住所地であることが多い)なので、上皇や法務省がある東京地方裁判所に起こす。民事訴訟法4条、5条参照
7 移送とは事件を別の裁判所にうつして処理させること。管轄が違うために移送するということもある。民事訴訟法16条1項。
8 裁判所に出す書面は大きく分けて主張書面と上申書と証拠に分かれる。主張書面は法的な主張やそれを基礎づける事実を書いている書面で、上申書はそれ以外の連絡文のことをいう。本来上申書とは謙譲語であるから、対等な存在には上申書という言葉を使わない。にも関わらず法テラスは「上申書出して下さい。」などと弁護士に指示してイライラさせることがある。

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