11月13日に詩人の谷川俊太郎さんが亡くなった。92歳。老衰とのことだった。
谷川俊太郎個人の経歴について、私はあまり良く知らない。どんな家庭で育ったのか、どんな勉強をしてきたのか。彼について知っているのは作品のことばかりだ。
とても不思議なことだが、彼が亡くなったというニュースが、最初で最後の彼の個人的なニュースだったようにさえ思える。
詩人に限らず優れた芸術家に共通の特徴がある。それは個人の経歴にさほどの注目が集まらないということだ。個人に関して向けられる注目は個人の作品に向けられるからである。そして、その注目は、もちろん個人そのものに対する注目とは全く別個のものである。
個人そのものが作品であるかのように、作品に向けられる関心と個人に向けられる関心がイコールになる場合があるが、その個人は作り手というよりは作られた偶像である。創造的なアーティストというよりかは、アイドルのようなものだ。したがって、アイドルには必ずアイドルとは別の作り手がいるということになる。
芸術家――今日は詩人について言おう――とアイドルの違いが歴然と現れるのは、その人の醜聞が流れたときである。詩人が個人的にどんなに悪行を重ねていようと、その詩の美しさは一切減じられない。アイドルはその不祥事が明らかになった場合、まるで魔法が溶けたかのようにその神秘性を失いうる。もっとも、そもそもその詩の美しさを知らなければ、詩人は非難の対象になりうるだろう。ただ、ある人に詩の美しさを知られていない詩人というのは、要はその知らない人にとってはただ人にすぎないから、結局、個々人の独断を離れた詩の美しさは全く傷つけられていないのだ。もっと単純な例を出そう。詩人が匿名で詩を発表した場合、その詩が素晴らしいものであれば、もはや美しさの基準が変更されるか破壊されない限り、その詩の光が消え去ることはない。
詩人と詩は異なる。だから谷川俊太郎の詩は、谷川俊太郎の死の後も残る。言葉は飛び散るが、書いたものは残る。この大変当たり前の事実が、死につきまとう暗い陰を少し晴らしてくれる。他方で、谷川俊太郎が亡くなってしまったということは、谷川俊太郎が生み出してきたような詩が、もはや容易には表れないということでもある。それはやはり作品の光が強いからこそ暗い影をくっきりと落としているといえる。
ともすればぼんやりと人を不幸にしていく言葉と違い、名のある詩が人々を幸福にする言葉で照らす。いずれにせよ言葉は無力などではない。詩人は連なる言葉で力を具現化する。そしてその力は永久機関のように私達を動かす力になるのだ。
「ふくらはぎ」という谷川俊太郎の作品がある。途中を引用する。
俺はおとつい死んだのに
世界は滅びる気配もない
坊主の袈裟はきらきらと冬の陽に輝いて
隣家の小五は俺のパソコンをいたずらしてる
おや線香ってこんなにいい匂いだったのか
何も変わらない。ただあなたが死んで、たくさんの詩が残ったことを除き。