悪口あるいは批判についてーー韓愈「原毀」を読んで


人の批判、悪口はおそらく人類の歴史と不可分だろう。

中国は唐の時代を代表する名文家(文人)韓愈が、人の批判、悪口について論じた「原毀」を読んだので、備忘のために感想を書く。

 

内容

原毀という題名は、原が「本源」という趣旨で、毀が「批判・悪口」の趣旨だそうで、原毀は「批判・悪口の本源にさかのぼって論じる。」という意味の題名になるそうだ。

 

韓愈は儒教を重んじ、儒教で聖人とされていた舜を持ち出して、論を始める。

「古代の君子は、自分の欠陥を追求するときはきびしく、かつ綿密であった。そして他人に対してはゆるやかで、かつ簡単であった。」

「他人が一つの長所を持っていることをほめて、二つそろっていることを要求しない。新しく進歩した点を見て、過去のことを追求しない。ただその人が善を行なうことによって得べき利益が得られないのではないかという点だけを、びくびくとおそれているのである。」

ここまでが、理想像の話。

「しかし、現実は……」と続く。

「しかし、いまの君子はそうではない。他人に対して欠陥を追求するのはこまかいが、自分に対してはあっさりしている(中略)そして自分はまだ能力がないのに、『自分はこれができるから、もう十分だ。』と言う。」

「他人の一つの短所だけをとりあげて、ほかの十の長所は勘定に入れない。過去のことを洗いたてて、新しく進歩した点は考えない。」

このような現実を踏まえた上で、韓愈は次のように批判する。

「このようにして(注:自分に甘く、他人に厳しくして)自分の尊厳を確立した人は、私はみたことがない。」

韓愈は、実体験として、試しにある人を非難したり、称賛したりしてみたところ、その内容の是非ではなく、その対象者との人間関係で、怒ったり、喜んだりする様を見て、自分の批判の正当性を訴える。

さらに結論として、

「しごとがうまく進むと悪口がおこり、徳が高くなると非難がおしよせるものなのである。」

とする。

 

感想

後半の論旨は実に身につまされる話だ。言論を「人的な」あるいは「党派的な」態度から評価することを戒めている。「何を言ったかよりも、誰が言ったか。」が重視されているのは、どこの世界でも見られる話である。

これは意図的なものもあるだろうし、無意識的なものもあるだろう。

人を批判する側は、無意識に党派的な批判をしないように、常に自分の主張を振り返る必要があるだろうし、「古代の君子」のような「寛容さ」を持つようにするべきだろう。

さもないと「自分の尊厳を確立」できないのである。というのも、確かに無意識に党派的な批判をするということは、なーんにも考えんと人の批判の受け売りを垂れ流しているスピーカーと同じである可能性があるからだ。自分自身できっちりと吟味した上で行う主張とは異なっている。ここに自分自身の有無が分かれるのである。

そして、批判される側は、党派的な批判など気にする必要はない。というのも、仕事がうまくいけばいくほど、党派的な批判が増えるのは当然だが、それは実質的な中身が無いからである。

とはいえ、党派的な批判であり、かつ、(論理的に?)正しい批判というのもありうる。

そうするとやはり自分の発言が正しいのかどうかを検証する「謙虚さ」は主張にあたって必要なのだろうと思う。

参考文献

前野直彬『新釈漢文大系第17巻文章軌範(正篇)上』昭和52年、明治書院、85ページ。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です