応無所住而生其心
まさに住する所なくして、しかしてその心を生ずべし
慧能禅師が薪を売りに出た時に偶然耳にしたこの言葉が、弘忍禅師のところへ修行に行くきっかけになったという。
出典は金剛般若経である。
岩波文庫の中村元、紀野一義の訳だとよくわからない。
ネット上でも直訳が見当たらない。
みんな意訳っぽい。まあ、意訳でも良いのだが、まずは直訳してみたい。
「応」は、再読文字で、漢文では「まさに~すべし」と読む。
意味は推量「おそらく~だろう」か当然「当然~すべきだ」のどちらか。
「住」は「とどまる」「とどめる」という意味。
「而」は「しかして」で、順接「そうして」も逆説「そうではあるけれども」も意味する。
他の漢字はだいたいイメージ通りの意味。
そうすると、1つの訳は、「おそらく、とどまる所がなければ、そうしてその心が生じるのだろう。」か「とどまる所がなければ、そうして当然にその心が生じるのだ」という意味になる。
釈迦が説いていることからすれば、推量というよりは当然で読むべきだろう。
「とどまる所」というのを意訳では「こだわり」「とらわれ」とすることが多いようだ。
ちなみに、「その心」は「清浄な心」だろう。
それは金剛般若経の該当箇所の少し前に出てくる。
したがって、「こだわることがなければ、そうして当然に清浄な心が生じるのだ。」という意味になる。
ただこうするとちょっと意味がとりにくい。
「所」というイメージをしっかり訳すことが必要だろう。
「所」に「とどまる」のは何なのか?
これも金剛般若経の該当箇所の前に記載があるが、色声味触法(≒五感の対象)である。
対象がとどまる「所」とはどこか?
それは「心」(≒自我)以外にはない。
「五感の対象が心のなかにとどまっていなければ、そうして当然に清浄な心が生じるのだ。」
少し意訳すると
「心が何かを思い続けていなければ、そうして当然に清浄な心が生じるのだ。」
となる。
ここで注意するべきことは、何も思わないことで、清浄な心が生じるのではない。
「思ったとしても、思い続けなければ、清浄な心である。」ということを意味している。。