ロバート秋山のクリエーターズ・ファイル炎上騒動について雑記


ロバート秋山のクリエーターズ・ファイルが若年女性を保護している女性活動家を揶揄したとのことで批判にさらされている。

1 抗議文への反対

抗議文には次のようにある。

2017年度に制作・放映され、現在もYou tubeチャンネルで公開され、書籍として販売されている「ロバート秋山のクリエイターズ・ファイルNo.28 キヨちゃん先生が少女たちを救う!」(Facebookの動画ではNo.25。以下、動画)の内容について強く抗議し、You tubeチャンネルおよび公式サイト等からの削除、動画が収録された商品の回収、公式サイトに謝罪文を掲載すること、再発防止のための具体的方策の検討とその開示を求めます。(抗議文より抜粋)

私はこのような抗議内容には賛同できない。

個人的には次のことが大原則だと思う。

1 いかなる表現も自由である。表現に対する批判も表現なので、表現に対する批判も自由である。

2 1に反するため、表現そのものを禁止する表現は許されない。

つまり「お前の表現はおかしい」という批判は許されるが、「お前は黙っていろ。」「表現を削除しろ。」「表現を回収しろ。」という表現は許されないように思う。特に人それぞれ正解が異なるような表現について、表現そのものを禁止することは、表現の自由の自殺行為だと思わざるを得ない。それが許されるなら全ての表現は許されない表現になりえてしまう。つまり何も物を言えないことになりかねない。表現の自由を制限する表現は制限されるべきである。

確かにロバート秋山の問題のクリエーターズ・ファイルは特定の人々の怒りを買う内容であるし、個人的にも好まざるものではある。だからこそ活動家やそれを支援する人達からこのような抗議文が出たことがとても残念だった。この抗議文は、他者への不寛容、余裕のなさ、許しではなく排除に満ちていると思う。それは活動家やそれを支援する社会の一角を自ら掘り崩すことになるだろう。

2 笑いの効用

笑いは対象を茶化すことによって成立できる。茶化すためには、茶化す対象に違和感がある必要がある。違和感とは何となく「不協和音な感じ」、不審・不信な感じ、不届きな感じのことだ。茶化す対象が持っている違和感を、笑わす側と笑う側が共有していることが前提だ。例えば、ボケとツッコミとは、ボケのおかしな点をツッコミが指摘するという役割分担であり、ボケが表現している対象を茶化すための装置なのだ。

笑いが成立しないのは、対象の非を全く理解できないのに茶化されるというパターンである。

今回の抗議文にも怒りの感情とともに、このように記載されている。

少女たちの人生と私たちの支援活動がいっそう困難になり、また少女たちの被害を矮小化する社会的雰囲気が醸成されます。そもそも、被害者やその支援団体をこのように茶化したり、笑いのネタにしていいんだというメッセージを人々の中に広めることになるでしょう。

抗議者の怒りの起点は「自分たちは全く『おかしな』ことはしていないのに、茶化されるのは心外だ。」という点にあるだろう。ただ、私の考えでは「『おかしな』ことはしていない。」というのは、抗議者側の一面的な見方に過ぎない。笑いの対象にされているということ自体が、そしてその笑いが社会の一部に受け入れられているという事実自体が、その対象に社会が違和感を持っているということ、不審・不信な点があるということなのだ。上記の抗議文がどこか空しく感じられるのは、その視点を欠いているからのように思われる。だからこそ、益々叩かれるのだ。

秋山の表現には活動に対する無知・無理解が多いとして、それへの反応は「黙っていろ。」ではなくて「私たちはこういう存在なのだ!」という理解を求める表現であるべきだ。

笑われるべきではないのに自分が笑われているというのは、自分がまだ理解されていないからだ。そういう自己批判の契機を得ることが笑いの効用としてあると思っている。

もちろん、超然として「笑いたければ笑っていろ、私達は私達の道を進む。」というのも十分ありうる選択だ。


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