誰であろうと無罪を推定するべき理由 森まさこ法相は法学部からやり直すべき


 

森まさこ法務大臣の発言が物議をかもしている。私も記者会見を聞いたとき「何を言ってんだ」と唖然とした。

その発言がこちらである。

「先ほど国外逃亡したカルロス・ゴーン被告人が記者会見を行いましたが、今回の出国は犯罪行為に該当しうるものであり、彼はICPOから国際手配されていることを忘れてはならないと思います。

ゴーン被告人に嫌疑がかかっているこれらの経済犯罪について、潔白だというのならば、司法の場で正々堂々と無罪を証明すべきであると思います。[1]日テレNEWS24時が公表している動画から書き起こし。強調は筆者。http://www.news24.jp/articles/2020/01/09/07575078.html 2020年1月9日閲覧

この記事では何がおかしいのか説明する。

森まさことは

森まさこは1964年生まれの55歳。東北大学法学部を卒業後、1992年に司法試験合格。1995年に弁護士登録。1999年にアメリカ留学。留学の目的は人権弁護士になるため

2007年から自民党から参議院議員として活動。以後、2012年に初入閣して、要職を歴任し、2019年から安倍内閣において法務大臣に任命されている。

注目するべき経歴は法学部卒であること、司法試験合格者であること、人権弁護士の育成のためにアメリカに留学したこと、法務大臣として活動していること、すなわち森法相は法律畑の人間であるということである。

無罪推定とは

憲法の規定

日本国憲法31条には次のようにある。

何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。

法律の定める手続とは普通に考えて刑事裁判のことだ。刑事裁判とは人に刑を科すための一連の手続を言うのだから、憲法31条は「刑事裁判が終わるまでは刑罰を科せられない」という意味に解釈してよい。

無罪推定の原則

刑罰の意味を狭く解釈して「刑務所で強制的に労働させること(懲役)やお金を強制的に奪われること(罰金)だけが憲法に書かれた『刑罰』だ」と考えることもできる。

この考え方では「刑事裁判が終わるまで、特に理由はないけど牢屋に閉じ込めてもよい。だってこれは懲役ではないから。」とか「刑事裁判が終わるまで、必要以上に第三者との面会を禁じてもよい。だってこれは刑罰ではないから。」という理屈が成り立つ。

ただ、常識的に考えて、牢屋に閉じ込められるのは刑罰ではないにせよ、自由を剥奪されており、実質的には刑罰と変わらないだろう。会いたい人に会わせてもらえないのも刑罰と変わらないだろう。法律上の刑罰ではないからといって、何でもありでは憲法の規定が無価値になってしまう。

通常、このような考え方はとられない。

むしろ、「刑罰を科せられない」ということは「必要以上の不利益を与えるべきではない」という意味に解釈される。「必要以上に」という留保が付くのは、刑事裁判自体を無意味にしてしまうほど被疑者被告人に自由を与えてしまうことまでも、憲法31条が求めているとは思えないからである。そう求めているのなら、憲法32条の逮捕の定めや、35条の捜索差押の定めがおかれるわけがない。

要は、刑事裁判を意味のあるものにする限りで、個人に不利益を与えることはやむを得ないと考えられる。反面、被疑者や被告人は、刑事裁判が終わるまで、可能な限り「罪を犯した疑いをかけられていない人間」(無罪の人間)と同じ扱いを受けるべきだということになる。これを無罪推定の原則という。

なぜ、このような規定があるのか?

簡単な話である。無罪が推定されないということは、有罪前提で個人を扱ってよいということになる。つまり、裁判にかけなくても、証拠がなくても、あるいは法律がなくても、刑罰を科すことができるという社会を認めることになる。どこの恐怖政治だろうか。そんな社会は国民は良しとしない。

疑わしきは被告人の利益に

先ほど無罪が推定されないということであれば、有罪前提で個人を扱ってよいということになると説明した。

刑事裁判で有罪前提で個人を扱うとどうなるだろうか?

言い換えると裁判官が「こいつどーせ有罪だろう」という前提で裁判を進めるとどうなるだろうか。そのような裁判では有罪判決にならないわけがないのだ。つまり刑罰を科されないわけがないという状態になる。

そんな状態に置かれた人に「あなたは裁判で有罪になるまでは普通の人として扱うよ!」と言ったところで何の意味があろう?

無実の人間として扱うべきだという原則は当然、刑事裁判にも妥当しなければならない。

したがって、刑事裁判は、「こいつはどーせ有罪だろう。」と考えるのではなく「こんなやつでも無罪かもしれない。」と考えながら行われなければならないということになる。

さらにすすんで「無罪かもしれない。」と思うだけでは足りない。「有罪だと確信できなければ、無罪にする。」という決まりでなければならない。「こいつ無罪かも・・・」と思いながら、有罪判決を出すということは、全然刑事裁判が個人を無罪の人間として扱っていないことになる。

「有罪だと確信できなければ、無罪にする。」ということはどういうことか? 罪を犯したことが証拠によって明らかでなければ、無罪にするということであり、反面で罪を犯したことに少しでも疑わしい点があれば、無罪にするべきということである。

これが疑わしきは被告人の利益にという意味である。

誰が証拠によって何を明らかにしなければならないのか?

有罪だと確信させるのは国だ。国が刑罰を科すからだ。被告人が自分の犯罪を立証するわけがない。具体的には有罪だと裁判官を確信させるために努力しなければならないのは、国を代表する検察官だ。

だから検察官は「こいつは犯罪者なんだ」というのを証拠によって明らかにしなければならない

法的には「有罪立証の責任は検察官にある。」という。

無罪を被告人や被告人の味方である弁護人が証明するものではない。自分の無罪を被告人が自分自身で明らかにしなければならないというのは原則として不可能だろう。(そんなことはないと思うなら、牢屋に入れられたまま証拠を集めてみればいい。牢屋を出ていても、なんの権限もないのに、犯罪者だと疑われながら、防犯カメラの映像をくださいとお願いして回ればいい。「知らなかった」という悪魔の証明があなたにできるのだろうか?)

刑事訴訟法の規定

そこで憲法を受けて刑事訴訟法には次のように書いている。

336条 (前略)被告事件について犯罪の証明がないときは、判決で無罪の言渡をしなければならない。

森まさこの何がまずいのか?

無罪推定、疑わしきは被告人の利益に、無罪の証明は求められない、という3点は刑事裁判の根幹といってもよい大原則だ。1つでも欠ければ、刑事裁判は一気に恐怖裁判となる。誰もがいわれのない罪で死刑になりうる。誰もが身に覚えのない罪で刑務所にぶち込まれる。

法学部であれば、多少の教養がある人間であれば、なおのこと法務大臣であれば、知っておかなければならないというレベルの話ではなく、身に染み込ませなければならない大原則である。

森法務大臣の発言のまずさは、法律畑の人間として、日本の法律執行を代表する立場でありながら、「司法の場で正々堂々と無罪を証明すべき」と発言した事実に濃縮されている。

お前(の手下である検察官)が有罪を証明すべきなのである。

推定無罪の原則が目の前で踏みにじられてきたのを目の当たりにしている弁護士は多い。(そうなってしまった原因は様々あるが、今回の記事では書かない。)

そのような弁護士の一人に大崎事件で有名な鴨志田祐美先生がいる。先生は昨年大分県で講演会をされた。

その鴨志田先生が今回の森まさこの発言に次のようなツイートをされている。

まさにその通りなのだ。国民の誰が勘違いしていようと、お前だけは間違ってはならなかったというのが、今回の問題の本質である。

本心では「どーせ犯罪者なんだから、あんたが無罪を証明しなさいよ」と意識的にせよ無意識的にせよ思っていなければ出ない言葉なのである。

そんな法務大臣はいらない。せめて法学部に入りなおして、勉強しなおしてほしいと強く思う。

ちなみに

私は人間としてのカルロス・ゴーンは大嫌いである。

カルロス・ゴーンが逮捕されたときは嬉しかった。捜査機関には頑張ってほしいと思った。この気持ちは今でも変わりはない。

カルロス・ゴーンから褒章を剥奪しろ! 勲章褫奪令のあれこれ

しかし、カルロス・ゴーンがどんなクズであろうと、法の正義は貫かれなければならない。


References

References
1 日テレNEWS24時が公表している動画から書き起こし。強調は筆者。http://www.news24.jp/articles/2020/01/09/07575078.html 2020年1月9日閲覧

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