誤指導での死 何が「善意」なのか?


鹿児島県奄美市の中学生が、誤った指導を受けたことに苦しみ、自ら命を絶った。担任の教師がこの生徒が、別の生徒をいじめたとして、双方の生徒の言い分を十分に聞かずに、厳しい、あるいは、生徒の自尊心を傷つけるような指導をしたことが原因だったという内容の調査が出された。

報道が指摘するとおり、学校が事実調査を軽視したことが根本的な問題だ。誤った事実に基づいて、厳しい指導をするというのは、冤罪のようなものだ。

最近、大分県だけなのかどうかは知らないが、学校では子どもを「あだ名」で呼ぶことも、「いじめ」の対象になるらしい。

ゆくゆくは「お前は友達をあだ名で呼んだな! なんて奴だ。友達が学校に来れなくなったらお前のせいだからな。どうやって責任とるんだ? ああっ!?」などと指導する脳筋が出てくるのではないかと心配している。

結局、嫌がっているのかどうかを見抜くことができない。だから、当事者間は何も問題にしていない日常生活に事細かに口を出す。これはある意味、問題を発生させたくないという事なかれ主義がもたらす結果だ。問題になる芽はとにかく摘む。それは子ども達のためではなく、学校の負担を減らす為である。刑務所が「施設管理のために必要なんです」と言っているのとさほど変わらない。

また、本当に嫌がっているとして、嫌がらせた側にどれだけの指導を加えるのかをきちんと判断できない。加害生徒と被害生徒を話し合わせれば仲直りできる問題なのか、一方的に謝罪を強要するのか、親も交えて弁償等をさせるのか、クラスを分けたり、懲戒したり、転校させたりしないといけない問題なのか、全く判断できない。

これは、本来事案を丁寧に認定すれば自ずと出てくるのだ。しかし、学校には加害生徒の立場に立って事案を調べる教師と、被害生徒の立場に立って事案を調べる教師といった、対立構造がない。大体、1人の教師が、その教師が見たいと思う事実だけをピックアップして、見たいと思うように見る。1つの文章を推敲するのに、書き手だけが推敲するのと、別の人に推敲してもらうのとでは、効果が全然違う。このように、事実の調査も評価も対立した立場にたって複数人で調査するのが最も良い。しかし、教師はこのような調査を嫌う。「自分が一番詳しく生徒のことを知っている。」などという無責任で無自覚な万能主義があるからだ。特に「生徒指導」などという薄っぺらい肩書きを得てしまった教師はそうである。

そこで、自分の指導が誤っていた場合に、素直に非を認めて、生徒に許しを請う謙虚な姿勢も持ち合わせていないという問題が生じる。そのため、冤罪被害にあった生徒は余計に苦しむことになる。

朝日新聞などは、「善意」の指導と報道しているが、「よかれと思った」などという言い訳は通用しないのだ。たいした事実も調べず、言い分も聞かず、適切な評価もできない教師に「善意」などというものがあったとは考えがたい。甘めに言っても、それは「独善」、ひとりよがりとしかいえない。

教員というものは生徒から見れば絶対的にみえるものだ。その絶対性に挑むための方法が、自殺という手段しかなかったのだとすれば、とても悲しい事件である。


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