約1年前、日馬富士から暴行を受けたとして、被害者として注目されていた貴ノ岩。
12月4日に、付き人を暴行したとして、加害者として注目されることになった。
貴ノ岩は何故暴力を振るったか
被害者として暴力事件がどのような意味を持つのか、貴ノ岩はよくわかっていたはずである。もう相撲の世界にはいられないよ、しかも、モンゴルで英雄視されている日馬富士の引退を決定づけた貴ノ岩は祖国モンゴルにも戻れないだろう。加害者を見る目は日本だって生やさしいものではない。
にもかかわらず、貴ノ岩が暴力という手段を選んでしまったのは何故なのだろう? 貴ノ岩の精神状態が不安定であることに原因があるという分析はわからないでもない。この1年、日馬富士の対応、角界の対応、祖国からのバッシング、貴乃花親方の処遇、引退、部屋の解散など貴ノ岩の精神を不安定にさせる事情はいくらでもあった。
ただ、精神が不安定な人間が、誰でも暴力を振るうというわけでもない。
貴ノ岩は暴力にさらされてきた
私はもっと決定的な要因があると思う。それは経験だ。問題解決のために、暴力を効果的に行使された、行使できた経験である。
貴乃花部屋では暴力は無かったかもしれないが、角界に暴力が蔓延していたことは、多数の事例から明らかになっている。
10年以上前になるが、「かわいがり」と称される、指導を名目にした暴行によって、死に至らしめられた序の口力士の少年がいた。それは時津風部屋力士暴行死事件として知られている。これが氷山の一角であったことも明らかになっている。
結局、目上の者が、目下の者に対し、気に入らないことがあったら、また、問題があると思ったら、それを「ただす」ために暴力を効果的に行使することが日常茶飯事になっていたのだ。
そのような環境下におかれた人間は、暴力が有効な解決手段であることを経験的に学ぶ。加えて、暴力を振るっても、親方が、部屋が、相撲界が守ってくれるという安心感が、暴力へのハードルを下げていく。
暴力が自分の要求を満たすための効率的な方法だと貴ノ岩も知っていたのだ。
貴ノ岩はやっぱり悪い
色々な理屈は立てられるが、人に暴力を振るうという行為は悪い行為といって良い。悪い行為をした貴ノ岩はやっぱり悪いのである。
貴ノ岩は社会的に危険な人物であると言っても良い。暴力沙汰の愚かさを被害者という立場で目の当たりにしながら、暴力に手を染めるというのは、ルールに対する意識が相当にぶいといえるからだ。
暴力的な環境下で育った人でも、学習して、あるいは、自己の信念から、暴力を振るわずに生きていく人が多い中で、貴ノ岩は暴力を振るったのだ。しかも、自分には逆らわない目下の者に対して。
今回の被害者が貴ノ岩にとって目上の者だったら? 悪いことには悪いことだが、悪さの見方は少し変わってくるのだろうと思う。
おかれた環境しかないという想像力の欠如
自分が置かれた環境が「絶対に正しいのだ」「絶対に望ましいのだ」「絶対に当たり前なのだ」という意識は、想像力を欠いている。狭い世界しか見えていない。井の中の蛙である。そもそも論理的ではないのではないか。自分が置かれた環境が絶対であれば、人間の社会に進歩はなく、今でも草原を裸で駆け回っていただろう。そんな社会が望ましいという人はほとんどいないだろう。
しかし、そういった認識は(自分自身が井の中の蛙である可能性も大いにあるが、それはさておき)多くの人間が自然と持っている。
だから「自分は親に殴られて育てられたのだから、自分が子どもを殴るのは当然。」とか「若い頃は死ぬほど残業したのだから、今の若い者が死ぬほど残業するのは当たり前。」とか「先輩に厳しく指導されて勝ったから、後輩を厳しく指導して勝たせる。」とかいう主張がまかりとおるのである。
本来は別の形のより望ましいと誰もが思う子育て、仕事、部活の練習の方法がある可能性は大いにあるし、実際にあるのだ。しかし、そのような可能性を知らない、見ようとしない。これは怠慢だ。怠慢自体は全然問題ないと思うが、これが「とりあえず暴力をふるっとこう」という安易さに結びつくなら私は大問題だと思う。
想像力の欠如には、想像力で対応するしかない。
貴ノ岩の事件は、社会の色々な場面で見られる暴力の連鎖の問題だと私は思っている。