【ネタバレあり】映画「グラン・トリノ」感想・考察ーークリント・イーストウッド監督の名作


クリント・イーストウッド監督が2008年に公開した映画「グラン・トリノ」を観た。日本で公開されたのは2009年で、このときも感動したが、今回も感動した。

 

あらすじ

映画のあらすじはWikipediaにも詳しく書かれているので、そちらを参照してほしい。

 

ただ、あらすじを読むだけでは当然この映画の良さは味わえない。この映画の良さは、セリフ・映像・表情に表れる「アメリカらしさ」だ。特にクリント・イーストウッドという名優・名監督が見せるこの「アメリカらしさ」が、この映画を名作とする決定打だ。

ここでいう「アメリカらしさ」はインディペンデンス・デイのように、人種や信条を異にするアメリカ人達を、強い男の代表である大統領が率い、大統領自ら戦闘機に乗り込んで宇宙人のUFOに突っ込んでいくというのと同じ「アメリカらしさ」だ。

(もちろん、インディペンデンス・デイほどハチャメチャなストーリーではない。)

アメリカらしさ

このアメリカらしさは次の2つの要素を持っている。

(1) 自立・独立した強い男達が、自己犠牲もいとわず、正義を求めること

(2) 人種・民族や信条・文化に関係ないアメリカ人というアイデンティティを尊重すること

 

3つの主張

このアメリカらしさという点から見ると、「グラン・トリノ」から次の3つの主張を受け取った。

(1) 「グラン・トリノ」は自立独立した男を育て、アメリカらしさを継承させるストーリーであること

主人公が移民の男の子タオの世話をし、働く場所も紹介し、女の子をデートに誘うように仕向け、最後は自分の愛車グラン・トリノを贈る。

グラン・トリノこそ、この映画におけるアメリカらしさの象徴である。紆余曲折を経て自立した男への道を踏み出せたタオには最高のプレゼントだろう。

(2) 主人公が自分の息子にはアメリカらしさを継承させられなかったこと

主人公は息子たちとの接し方に悩みながら、結局うまく行かなかった。これはある種の悲劇のようにも思える。

しかし、同じ白人の息子には継承させられなかったアメリカらしさを、隣人にすぎない移民の男の子には継承させられたという点に注目したい。

つまり、人種民族は関係ないのだ。アメリカ人というアイデンティティは誰もが共有することができるという信念がこの映画を貫いていなければ、この表現は成立しない。

(3) それでも正義を支える価値観はキリスト教であること

主人公は教会嫌いを公言しているが、これは自分が朝鮮戦争で犯した罪への後悔から出た発言であり、神を畏れるが故の言動とみるべきだろう。

それ故、最後は懺悔に及ぶ。これは神父に対する懺悔を指すのではない。タオへの懺悔のシーンだ。

タオへの懺悔のシーンは懺悔とは言及されていない。しかし、金網を仕切りに二人が向き合うシーンは教会の告解場を意識していることは間違いない。また、そこで主人公が述べた後悔は懺悔そのものだ。

人を殺してどう感じるか? この世で最悪の気分だ。それで勲章などもらい、もっと気分が悪い。

最後に自分を犠牲にした主人公はキリストそのものだ。もちろん、彼は自分の罪を償うためという意味も込めてはいるのだが。なにせ神父に懺悔した時に唱えるよう言われた聖句は、撃たれる直前に唱えようとしたし、撃たれた直後はまるで十字架にかけられたイエスのような姿で倒れた。

彼はキリスト教的な大義の中で自分を犠牲にした。

結局この映画は何だったか?

このようなアメリカらしさは、批判的に受け止められることもあるだろう。

実際、このようなアメリカらしさが、世界に多くの悲劇を振りまいているのではないかと思う。

しかし、私はこの映画が名作であると言いたい。この映画は、アメリカらしさを無条件に称賛するのではなく、血塗られた、後悔に満ちた、失敗も多いアメリカらしさであることを赤裸々に認めている。それでもなお、アメリカらしさはまだ希望を持っている、「私達はまだまだできる!」と強く訴えてくるのである。

そう考えると、生粋のアメリカ人である主人公の懺悔を聞くのが、神学校を出た神父ではなく、ベトナム戦争の影響で国を追われた民族のタオでなければならなかったことが分かる。

この映画自体が「アメリカらしさ」の懺悔とそれへの赦しを求める映画だからだ。


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