性行為は自由なのではないか。
性犯罪の厳罰化に関連して、次のような問題を考えてみた。
問題設定
次の状況を想定する。
状況1
愛し合うカップルA(男・30歳)とB(女・30歳)がいる。2人はAが借りているアパートの部屋にいる。そして、今まさに同意により性交(男性器を女性器に挿入することを言う。以下同じ。)に及ぼうとする。
与えられた事情のみ見たときに、さてAとBの性行為を妨害することは違法か否か。
私の回答
私は妨害は違法と考える。性交するかしないかは原則として自由であり、第三者が他人の自由を妨害することは原則としてできないからだ。
したがって、例えば性交する場合には性交許可書を市役所からもらっていなければならないなどと性交を制限することは原則違法である。
AとBを性交させまいとアパートにBの親Cが居座って(不退去罪は成立しないものとする。)妨害することも原則違法と考える。
理由について補足
異論もあろうが、人が自由を良しとするのは、自由が人に快楽を与えるからというのが1つの理由だ。
幸福追求がすなわち快楽追求であるならば、そのための自由は確保されていなければならない。
したがって、性行為する自由も原則的に認められるべきだ(性行為自由の原則)。
性行為禁止の原則
状況1でAとBの性交を妨害してもよいと回答するのはどのような立場だろうか。AとBの性交を禁止すべき事情は特に思い当たらない。
「30歳は性交してはいけない。29歳や31歳ならいい。」とか、「アパートで性交してはいけない。ラブホテルを使用するべきだ。」といった思想を持っているのだろうか。それはあまりにも特殊だろう。今回は無視する。
そのような特殊な考えではないだろう。おそらく、「性交すること自体が悪なんだ。」と言う立場だろう。
このような思想は案外身近にあるように思う。
性行為禁止の原則は次のように説明できる。
性交は原則してはならない。但し、特別な事情があれば許される。
特別な事情として認められるものは様々考えられる。
生殖のための性交は許されるという立場が一例だろう。
この立場では、快楽のための性行為は許されない。
避妊して性交することも許されないだろう。
また、同性同士の性交も許されない。
もう少し性行為禁止の原則を考えてみよう。どうして性行為を原則禁止すべきなのだろうか?
歴史的には宗教的な理由付けがよく見られるところである。また、倫理的な裏付けとして、快楽を堕落と見るのであれば、性行為を極力避けるべきものと位置づけることは十分ありうる。
さらに、性行為自体を当事者の一方に対する他方への侵害行為と見るのであれば、これも許されない理由になるだろう。
例えば性交は人体に対する有形力の行使であると見れば、暴行罪と同様である。暴行罪が許されないのと同様に、性交もまた許されない[1] … Continue reading。
性行為自由原則と禁止原則の差異
原則自由とするのか、原則禁止とするのかで、つきつめていけば結論は変わらないのだろう。しかし、つきめられるかどうかは別問題である。
「~の場合は例外的に性行為禁止」と表現するのか、「~の場合は例外的には性行為を認める。」と表現するのかでは、自由な性行為の幅は異なるのが通常だろう。
より具体的な問題でいえば、自由とも禁止とも結論が出ない状況で、暫定的に認めるという方向で生活するのか、暫定的に禁止するという方向で生活するのかでは、生活の態様が変わってくるはずである。
さらに言えば、社会一般で性行為に関するルールを制定するときに、ある性行為が自由であることを説得しなければならないか、ある性行為が禁止すべきものであることを説得しなければならないかという点でも異なってくるだろう。
性行為自由の原則に立つのか、性行為禁止の原則に立つのかによって、生活に与える影響や、主張内容に差異が生じるのである。法規範における原則と例外の関係は、「紙の表をひっくり返したら必ず裏」という関係ではないのだ。
性行為自由の原則の例外ーー同意
性行為自由の原則の例外はどのような場合だろうか。つまり、どのような条件下で性行為は禁止されるのだろうか。
最も思いつきやすい条件は、一方当事者の不同意である(不同意性交禁止の例外)。
状況1でAはBとの性交を希望している一方で、BはAと性交することに同意していないとすれば、これは性交を禁止すべき条件を満たしていると考えるのである。
この考え方は素朴であり、理解を得やすい考え方であるし、私も基本的には人格の尊重という理念に照らして賛同する。
しかし、重大な解釈問題を内包している。すなわち同意の実質である。
性交に同意するとは何に同意することなのか?
この問いに答えられなければ、議論の土台がなりたたない[2]現在、不同意性交罪の議論がされているが、その議論が混乱している一番の要因はこの同意の内容が論者によって共有されていないからである。。というのも何に同意するのかという問題は、当然、ある人に同意できるのかどうかという問題と関わってくるからである。
一口に同意といっても、多くの知識や難しい計算した上で判断すべき同意もあれば、まるでコンビニで飲み物を買う程度に簡単な同意もあるのである。
拙速な論者は「包括的な同意」などと抜かすだろう。すかさず「包括的な同意とはなにか?」という質問が飛ぶだろう。
またある論者は「性器と性器を接触させることの同意である。」と抑制的に答えるだろう。しかし、であるならば意外と同意を得るハードルは思った以上に低いことになるが、それでよいのだろうか。
別の論者は「性行為によって生じる妊娠のリスク、性病罹患のリスクを受け入れるという意味での同意である。」と答えるかもしれない。これも不十分ではないだろうか。身体的にセーフティな性行為(例えば画面を通しての性行為)は同意がなくても禁止されない余地があることになるからである。
もう少し主観的に「身体的及び精神的な負担を受け入れるという意味での同意である。」という整理もできる。先程のリスクに関する同意は、主として性行為後に生じるリスクが対象となるが、身体的及び精神的な負担に関する同意は、主として性行為それ自体に生じる負担の問題である。これでも十分なのかはよくわからない。
さらにこの同意がいつの時点で必要で、いつまで必要なのかも問題になる。
性行為前に存在しなければならないのは当然として、性行為終了後に同意を遡及的に撤回できるのだろうか?
また、同意の手続についてもどのように考えればよいのだろうか。
同意があったことを書面で残すべきだろうか?また同意ははっきりと明確に取るべきだろうか、それとも黙示の同意でも足りるのだろうか。これは同意の証明という問題にも関わってくる。
「エッチなことはいけないことなのか?ーー性犯罪厳罰化の議論前提となる基本的原則」への1件のフィードバック