中根千枝『タテ社会の人間関係 単一社会の理論』


1967年に1刷、私が購入したときは128刷である。どれだけ多くの日本人がこの本を手にしたのか。

上下に対する強い意識

日本の集団は努力すれば(あるいは我慢すれば)集団内部で上位にいくことが可能な構造になっている。中学・高校の部活動の様子をみるとそんな感じはしなくともない。なにせ学年が上がりさえすればどんな凡人、はては愚鈍でさえも部長、副部長になること自体はできたりはしないか?

そんな集団の特徴があるからこそ、上位にいけなかったことが強く意識される。「上がれたはずなのに、上がれなかった。」という意識だ。この意識が「上がれなかったのは本人が努力をしなかったからではないのか」とか、「自分は競争に負けた落ちこぼれだ」という意識を生む。

「ウチの者」「ヨソ者」

日本の集団は集団の内部にいる「われわれ」「ウチの者」と集団の外部にいる「ヨソ者」を峻別する。

これも部活動の様子をみると、そう見える一例が出てくる。野球部はクラスが別れていようと野球部で一緒に弁当を食ったり、バスケ部はバスケ部で集まって弁当を食う様子は高校の時によく見られたものである。

そして、部活外でたまたま同じ部の部員が集まっていれば、部外の人間がたまたま入ってこようものなら、「なにしにきた。」という目つきで見るのである。部活中ならまだしも、部活外であれば、「同級生」という意識で親しんでも良さそうなものだが。

 

よく部活動、特に体育会系の部活をした生徒は礼儀正しいなどと言われるが、これもどうかと思う。

というのも、部活内では顧問、OB、部長、副部長……先輩、後輩と上下関係が設定されており、過剰なまでに礼儀を守るが、部活外で同じ部ではない先輩に会っても、別段、礼儀を守るわけでもない。顧問ではない先生の授業で居眠りをするなんてこともわりとあろう。

結局、彼らの礼儀作法は閉じられたもので、社会一般に向けられたものではない例は多い。

もちろん誰にでも礼儀正しい運動部員は多いが、文化部員と同程度だろうと思う。

論理的でない様子

論理的な正しさよりも、対人関係的な正しさが優先される。「誰々が言っているから(正しい)」「みんながこう思っているから(悪い)」という意識だ。

多かれ少なかれ外国でもそういうことはあるのだろうが、日本でもあてはまるわけだ。

誰々には「部長」「顧問」が入っている。

「みんながこう思っている」の一例として最も問題のあるものは「部活で強くなるためには体罰が必要悪」という意識だろう。この「体罰をすれば、部活が強くなる」という命題は、多くの科学的な知見が否定的見解を示しているにもかかわらず、感情的に語られることの多い誤解である。

また、私がこれまで接してきた体育教師は極一部を除き「俺が言ったから正しいんだ」という意識が根強い。大抵、法律的に無理筋を要求してくるのはこのようなタイプである。おそらく、体育教師をとりまく体育会系の部活動の中で、その意識で上手くやっていけたのだろう。歪んだ成功体験が、人の物の見方を歪めてしまうのはやむを得ない。

哀れなことである。

思い出

昔、何でも一番にならないと気が済まない同級生がいた。彼が何かで負けて泣いて悔しがっていたときに、彼の母親が「ビリがいるから、一番がいるのよ。」などと言っていた。今思い返すと、1つの勝負でついた順位は、結局は相対的な位置関係にすぎない、という深い言葉だったのではないかと思う。

上下も時の運ではないか。努力することの価値を否定しないし、結果の大事さも否定はできないとしても、人間の価値は組織内の上下だけではないよということか。こう書くと一気にきれい事に聞こえるが。

 

もう一つ。私が今の事務所に入所してからしばらくして事務所のことを「ウチの事務所」と呼ぶようになったとある人に指摘された。その人にとってはそれが嬉しかったらしい。どうしてなのか私にはよくわからなかったが、この本を読むと分かる気はする。

この本が売れ続けていること

さて、冒頭に書いたとおり、この本は売れ続けている。しかし、日本の何かが変わる気配はない。まあ、この本自体も「だから日本はダメなのよ」という論調ではないから、変えた方が良いという結論が必ずしも導かれはしないのだが。

ただ、多くの人がこの本を手にしたと言うことは、多くの人が悩んだからではないのだろうか。タテ社会の人間関係に。そうすると、刷を重ねてきたことに、ちょっとした悲劇性を感じる。


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