本の感想 『ジェンダーについて大学生が真剣に考えてみた――あなたがあなたらしくいられるための29問』明石書店、2019


ジェンダーについて大学生が真剣に考えてみた――あなたがあなたらしくいられるための29問』を読んだ。

「ジェンダー研究のゼミに所属している」学生たちが、

そのことゆえに友人・知人から投げかけられた

さまざまな「問い」に悩みながら、

それらに真っ正面から向き合った、

真摯で誠実なQ&A集

と本の帯にはある。

一橋大学社会学部教授の佐藤文香先生が監修された「大学生の視点からのジェンダー『超』入門!」だそうである。

良いと思った点

帯の文句に違わず、29の問題に対して大学生ゼミが回答していくという形式で書かれていて、良い意味でも悪い意味でも分かりやすい。

内容はまあ概ね「ふーん。そうなんだ。」と腑に落ちる点は多い。性暴力に関する論述もわかりやすく書かれている。そのため、確かに「超入門」と銘打つだけはあるなと思う。

特に問11「日本はLGBTに寛容な国だよね?」には共感した。周りにもいる。「これだけテレビでオカマが出ててさ! ほんと日本は寛容な国だよな!」 どこと比べて寛容と言っているのかわからない。結局テレビに出演しているという「遠い他者」がLGBTであるから言えている発言ではないか? 職場で、家庭で、親友が、恋人がLGBTだった場合にどの程度の「寛容さ」を発揮できるかは要見物である。「自分には関係ないから」あるいは「自分が馬鹿にできる存在だから」発揮できる寛容さであれば、なるほど「日本はLGBTに寛容な国だよね?」という問は欺瞞以外の何者でもない。

ジェンダー学の最も強力な武器とも言える社会構造の暴露、すなわち価値観の相対化を通じた破壊行為、その基本的な方法論が明確に提示されている点はよかった。

違和感を覚えた点

他方で、違和感を覚えた点もある。

問いに対する真摯さ?

問22「女性専用車両って男性への差別じゃない?」では痴漢冤罪を理由に男性専用車両の導入を求める声を取り上げている。私は至極もっともな声だと思う。痴漢にあう女性が安心して乗れる車両があったほうが望ましいので、女性専用車両を導入するべきだ。それと同様に、痴漢冤罪にあう男性が安心して乗れる男性専用車両があったほうが望ましい。

男性専用車両を導入する立場は女性専用車両の導入に賛成する立場と矛盾しない。

これに対して学生たちの答え方を見てみよう

(引用者注:痴漢冤罪が家庭全体を路頭に迷わす)恐怖が正当なものだとしても、痴漢被害を論じているときに冤罪の話をもちだしてこちらの方が重大な問題だというのは、位相の異なる問題を議論にもちこんで論点をすりかえることではないでしょうか。(pp.140-141.)

「今その話ししてないから。黙って」と聞こえる。冷たい答え方である。冷たいだけではなく「お前たちは女性専用車両の正当化の議論よりも、痴漢冤罪の話のほうが重大な問題だと言ってる」と「批判」している。別に男性専用車両の導入を主張する論者は女性専用車両の導入に反対はしていないのである。言い換えると女性専用車両の導入は望ましいことで決着がついているわけだ。少なくとも男性専用車両の導入を主張する者が、女性専用車両を廃止しろと主張しているのを見たことはない。いたとしても少数だろう。「女性専用車両の導入は決着がついたので、男性専用車両の話もしましょうよ」と持ちかけたのに対して「今その話ししていない」と答えるのは、一体何についての話をしようとしているのだろうか?

せめて「男性専用車両の導入の当否も大事な問題ですが、女性専用車両の導入の必要性、正当さを否定するものではないはずです。」程度の回答はしてほしかった。

問22からは学生たちの「私の問題以外の問題はどうでもいい。邪魔をするな」という本音が透けて見えたような気がする。このような態度は「問いに対する真摯さ」とは呼べないだろう。

痴漢冤罪だけを憎むのではなく、それと同じ情熱をもって痴漢の根絶をめざすべきだと考えます。(p.142)

痴漢冤罪を憎むという「気持ち」と「痴漢の根絶をめざす」という「行動」を並列しているのにも違和感を覚える。痴漢冤罪の撲滅に向けても行動してもらいたいものである。痴漢冤罪の被害者に「一緒に痴漢の根絶を目指しましょう!」というのは勝手だが、痴漢冤罪の被害を軽く見過ぎであろう。

意図的な問いの回避?

問15「どうしてフェミニストは萌キャラを目の敵にするの?」では伊勢志摩海女萌キャラクター「碧志摩メグ」の公認撤回事件が取り上げられた。

彼らの回答は、このキャラクターは「胸元が強調され、地面にペタンと座っている姿」は「性的な表現」であり「広義のセクハラ」であるから「公的表現」にふさわしくないというものである。しかし、フェミニストは萌キャラを敵視しているわけではないですよ、と。

3つの素朴な問いが当然提出される。

1 性的な表現であるかどうかを決める基準は?

フェミニストの主観で決まるのであれば、それは自分の気に入らないのものは排除するということだ。気に入らないものを見たくないという「お気持ち」は正当でも不当でもないが、それ故に万人に受け入れられない。そもそもこの萌キャラについては「性的な表現ではない」との指摘も相次いでいた。このような指摘にはどう「真摯」に答えるのだろうか?

これは「性的」だけではなく「女性的」な表現を問題視する態度にも言える。

2 表現の自由との調整は?

仮に性的表現だとしても、一旦公認のうけた表現を撤回するということはその表現に対する挑戦・制約と私は思う。また、また「フェミニストは萌キャラを敵視していない」と彼らは言う。しかし、彼らの回答は「非公的な場での表現であり、性的表現でなければ」問題視しないという留保が付されていることに注意が必要である。

「表に出てこなければ自由で良い。」というのは。LGBT、宗教的少数者、家庭で抑圧されていた主婦たちが常々言われていた忌むべき「寛容さ」ではなかったか?

3 性的とされた特徴を持つ者については?

「性的な表現」は「公的な場での表現」にふさわしくない。これが彼らの意見である。それは性的な表現を公的に認めることになるからであるというのが理由である。

そして彼らは「胸元が強調され、地面にペタンと座っている姿」が性的だと指摘する。そして「女性的なしぐさ」の表現にも注意を促す。

このような言説が、「胸が大きい女性」「女性的とされるしぐさをする女性」を公的な場から排除する効果を持つことについては彼らはどのように考えるのだろうか? 日赤の宇崎ちゃん献血ポスター騒動でもそうだった。彼らは彼らが表現を糾弾することによって傷つけている人間がいることを知らないか、無視しているのである。

彼らは「萌えをポジティブに評価している論者もいますよ!」という。優しい白人奴隷主もいるという程度の話にしか聞こえない。そもそも、彼らに突きつけられている問いは「ネガティブに評価している論者(萌キャラを目の敵にしているフェミニスト)についてどう考えているのか?」というものである。「巨乳は奇形」と豪語してはばからない者がフェミニストを名乗り続ける以上、この疑問は消えない。

いずれの問も全てネット上で激しく指摘された問である。彼らがこれを知らないわけがない。それに対する答えは管見の限り見当たらなかった。もし問に思い当たらなかったとすれば、あまりに視野が狭い。もし問を意図的に無視したのであれば、あまりに不誠実である。私が彼らの回答を読み取れなかったのであれば私が悪い。

言いがかり?

問14は「どうしてフェミニストはCMみたいな些細なことに噛みつくの?」である。ムーニーのCMが取り上げられた。このCMでは「育児に孤軍奮闘する母親を描いており、最後に『その時間が、いつか宝物になる』という字幕が出る」というものであり、「『母親がひとりだけで育児をする』という『ワンオペ育児』を理想的なもの(長い目でみればよいもの)として描いている」点で問題である(p.92.)。これが彼らの主張である。

ここには、この本でよく見られる主張の形式が隠されている。

(1) 世の中には「女の理想形」を描いた表現、又は、これが「女の理想形」と捉えられる可能性がある表現がある。

(2) そのような表現は「女の理想形」が抱える問題点を無視したり、その理想形から外れた人を否定したりする可能性がある。

(3) したがって、そのような表現は問題視されるべきである。

この主張の形式には2つの疑問が提示される。

 

まず、本当に理想を描いているのか?という疑問である。

ムーニーはこのCMはあまたある女性の現実の一要素を切り取っただけだ。全てを描ききることなど出来ない。現実を描いたことについて「『理想的である』と主張している」と糾弾するのは、相手方に反論の機会を与えないやり方である。「そんなことはありません。」という答えに対し「いいや。嘘だ!」と返すからだ。議論にはならない。実際、ムーニーは理想像として描いていることを否定しているが、それを大学生らは信じないのだろう。少なくとも本書にムーニー側の言い分は取り上げられていない。アンフェアである。

フェミニストを自称する人々の中でも見られる「主張の意図の曲解」がここにも表れている。次の表現もそうだ。

たとえば、「そんなに肌を出した格好をしていると変な人に襲われるよ」という一見親切な言い方も、実は「露出の多い服装をした人は被害にあっても仕方がない。自己責任だ」という被害者落ち度論を間接的に認めていることになるのです。(p, 169. )

これが言いがかりであることは論をまたない。この「親切な言い方」と被害者落ち度論を認めないことは両立するからである。むしろこのように注意を与えないことによって「変な人」による変な犯行をやりやすくしている。その意味では性犯罪者の片棒を担ぐおそれすらある物言いである。

 

次に、理想形と捉えられる可能性すらも問題視するのか?という疑問である。

「私にはあんたの描き方が理想を押し付けているように見えるよ! 他の人にもそう見えるかもしれないよ!」という論法はほとんど全ての表現に対して提出できる批判である。したがって、この批判にまともに対処する場合には、表現行為を諦めるか、著しく無味乾燥・無機質かつ抽象的な一見すると哲学的な表現しかできないことになる。まるで砂漠のように荒涼とした不毛な表現の自由市場が理想形になりかねない。

逆にバリバリ働く女性と専業主夫のパートナーを描いたCMであればよいのだろうか? 当然よくないはずである。それはそれでステレオタイプを作り出し「理想を押し付けるな」という批判につながるからである。

別に問題視するのは結構である。しかし、問題は限定されなければならない。つまり、ステレオタイプにあてはめようとする現実の動きには抵抗しなければならない。しかし、ステレオタイプであるとのレッテルを貼って表現を攻撃することをやめなければ、彼ら自身の主張の足元を崩すだろう。

ダブルスタンダード?

さらにダブルスタンダードの問題がある。上記の主張の形式でCMもミスコン(問16)も萌えキャラも問題視し、問題視するばかりか「公的な場」からの追放を主張した彼らだが、同時に次のような主張を展開する。

ジェンダーに問題関心のある女性が化粧をしている、つまり「女性らしく」ふるまっていることに疑問を抱くのでしょう。でも、わたしは、化粧自体が嫌いなのではありません。(中略)

強制されたとき、化粧は抑圧となりうるのです。

(中略)

自分の身体をどのように飾り立てるか、どのようにふるまうかは、本人の自由です。(中略)

個人の自由な選択と見える女性の行動が、社会の常識に多分に影響を受けながら、男性中心主義的な構造を再生産する可能性もある。一方で、たとえば「化粧をする女性は男性に媚びている」といった決めつけは、その女性の選択の自由をなかったものにしてしまいます。はたしてそれは、女性の意思を尊重しているといえるでしょうか。

(中略)したい人はして、したくない人はしなくてもいいと選択できる社会が理想だと思います。(pp. 156 – 157.)

(太字は引用者)

個人の自由な選択と見える女性の行動が、社会の常識に多分に影響を受けながら、男性中心主義的な構造を再生産する可能性もある」から表現を問題視してきたのではないか。あまつさえ表現を排除しようとしてきたのではないか?

この問題似続ける言葉が「『化粧は男性への媚だ』というのは決めつけだ。おかしい。」というものだが、さっぱり意味がわからない。何が「一方で、」なのだろうか。論点をずらそうと必死なのだろうか。

挙げ句に「いや~、化粧はしたい人がすればいんじゃないですかね。」というのはダブルスタンダードとしか言いようがない。じゃあCMもミスコンも萌えキャラもしたい人がする分にはいいのではないか。「公的」か「非公的」かはこの場合関係ない。彼らが化粧をして家を一歩出た瞬間にそこは「公的」な場だからである。

自分の自由は大切だけど、あなたの自由は不適切。だって私が嫌だから。

これが彼らのまごうことなき本音なのではないだろうか。

まとめ

20名以上の人間が関わって出来た本にしてはチェックというか検討が甘いような印象を受けた。この本はほとんどの記載については真剣に書いたのであろう。ただし、ごく一部、しかし極めて重要な問いに対する回答が不十分であると評価せざるをえない。それゆえ、私はこの本が「真摯で誠実なQ&A」であるとの評価に賛同しかねている。


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