大江健三郎、坂本龍一、反原発運動のこと


令和5年3月は3日に大江健三郎が亡くなった。11日には東日本大震災、福島原発事故から12年だ。そして28日に坂本龍一が亡くなった。

大江健三郎も坂本龍一も多様な顔を持つ。それ故、一般的に偉大な人物がそうであるように、ある単一の事象のみを取り出してその人を語ることは、冒涜的な矮小化をはらむ危険性がある。

とりわけ芸術家である彼らを語るに、彼らの芸術を踏まえない物語に何の価値があるかは疑問なしとしない。

 

ただ、私はこの3月に起きた事象に不思議な因縁を感じ、文章にせざるをえないのである。

 

この2人の偉大な芸術家は、彼らの活動として反原発運動に取り組んだということでも特筆されるべき人物だ。

2人の共通点ではなく、2人と反原発運動の共通点を考えたとき、「余事」という言葉が浮かぶ。

余事という言葉があまりに遠慮した言葉であれば、「無駄」と言い換えてもよい。

 

大江健三郎にとって文学が、坂本龍一にとって音楽が、生きる上で必須の価値を持つものだったとしても、文学や音楽はそれを読破視聴する者の多くにとっては必須ではない。

いかにニーチェが「読書する暇つぶし屋を私は憎む」と罵倒したとしても、多くの人間にとっては暇つぶしなのである。

(暇つぶしの中でも恐ろしいまでの価値のある暇つぶしと、暇と一緒に消えて無くなるべき暇つぶしがあり、彼らの文学や音楽は前者だということは申し添えておきたい。)

どんなに大江以前に大江の作品が存在せず、坂本以後に坂本の作品が存在しないことの歴史における重大性を捉えても、やはり余事なのである。

 

反原発運動について考えた時、今や反原発運動を襲い、その活動を低調ならしめているのは、必要性の暴風である。

電力は必要であるが、反原発運動のカウンター言論は、必要というだけでなく、より安い電力の必要性の主張である。

食べ物が必要という話と、明日のパンが必要だという話は、窮乏の度合いが全く異なる。

原発の再稼働を求める声は、どちらかというと「もはや火力や太陽光といった割高な電力は買えない」という意味合いを持つ。

(このような相手の主張の理解を踏まえない反原発運動は早晩潰されるだろう。)

窮乏の声から見れば、反原発運動など、(誤解とはいえ)高額所得者の余事にすぎないと見られているのだろう。

「いいよね金持ちは。火力の電力を買えるし、原発の安い電力はいらないんだってさ」

 

時代そのものに、無駄なもの、余事を抱える力、まさに余力・余裕が無くなってしまったようだ。

これが大江健三郎や坂本龍一が亡くなったことが象徴する3月の風景である。

 

時代そのものが窮乏と必要性のサイクルに巻き込まれてしまった時代でも、芸術の火が消え去ってしまうことはないだろう。

あたかも暗い時代に輝く星のように。

しかし地上はもはや必要性と必然性の無味乾燥で無機質なプロセスに誰もが飲み込まれる。

果たしてこの時代において、人々が何をもって幸せを感じるのだろうか。甚だ暗い気持ちになるのである。


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