短編

その人は川を渡りたいと思って歩いていた。誰に行けと言われたわけでもない。散歩のつもりだった。

ある日、自宅の窓から川が見え、「おや、あんなところに川があったのか」と不思議に思った。そして、人間にとって川というものは渡ってみると面白いのではないかと思わせる何かがある。

男はそれほど準備をすることなく気軽に家を出た。不思議と歩いていると必要なものは最低限手に入った。のどが渇けば、のどを潤すに足る水を得た。おなかが空いたら、歩く元気が出る程度に食べるものを得た。

不思議なことに家から見えたはずの川には中々つかなかった。さらに不思議なことに、自分の周囲がどんどん大きくなっているような気がし始めた。半分くらいの距離を歩いた頃、それは確信に変わった。

道で出会った老人に「なんでこんな不思議なことが起きるのか」と訊いた。老人は「それはお前が不思議だと思ったからだ」と述べた。馬鹿にされていると思っていたら、別の老人がやってきて、答えた老人を杖で打った。唖然としている男の前で、その老人は「お前は今何を思ったか言え」と怒鳴った。打たれた老人は「おや。もう川の向こうに行ったかと思ったのに、いつ戻ってきたんだい」と答えた。

とんでもないことだと思い、男は周囲で起きてる不思議を解明する余裕もなく、川の方に足を進めた。

やはり川に近づくにつれて身体は小さくなる。不思議と道行く人々も小さくなっているようだ。周りの草はジャングルのように見えた。雀の羽ばたく風さえも感じられた。

このまま進むとどうなるのか少し不安が頭をよぎったが、それもまた小さくなってしまったようだ。それに合わせて男はアキレスと亀の話を思い出していた。永遠に亀に追いつけないアキレス。自分も半分の距離を歩いたときには身長も半分に、さらに残りの半分を歩いたときにはさらに身長が半分に。この調子で行くと川岸にたどり着いたときには自分の存在は無限小になるのではないかと思った。

そびえ立つ山を登っていると思っていたが、そうだこれは家から見た川に沿ってあった土手だと気づいた。誰かが踏み固めた獣道、この道が生まれるまでどれほどの人々が土手を登ったのだろう。計り知れない。おそらく自分と同じ程度に軽いはずなのに。

そうして頂についたとき。丁度朝方であった。川の水面は朝日を映して輝いていた。まだ日が低いので、水面の陰影ははっきりしている。水面に立つ波は輝く面と暗い面とを同時に生じ、そして同時に消えていった。そのような波が限りなくあるのである。

景色を眺めながら川岸にさらに近づいていった。もはやこの身体では川の向こうを見ることも叶わない。そもそもどうやって渡ればよいか。自分は無限小になってしまう。

すると声が聞こえてきた。誰の声とも分からぬが、誰かの声と分かる声だ。不思議と少し高く聞こえる。

「渡りたいのか。」

その声はそう言っている。

「はい。橋はありますか。」

「ない。」

「多くの人がこの川を渡るために歩いてきました。ここには私一人です。皆さんどうやって渡ったのですか。」

「船だ。川を渡るには普通の人なら一月半と少しかかる。」

「船はどちらにあるのですか」

「船に乗ってどうするつもりなのか」

「向こうに渡るのです」

「波を見よ。波を起こす風を見よ。波は一つの川から出でて、川に戻っていく。その川は変わらぬようでいて、本当は流れて去っていく水だ。去った水は空に戻り、川の上に落ちる。空は風とともにあり、風は川とともにある。そして見えるのがあの波だ。あの波は何だ。」

「あの波は川であり、水であり、太陽の輝きであり、暗闇でもあり、風であり、空です。」

「私はお前を掴んで川に落とせないのが残念でならない!」

そこで男は気づいた。

「もう私は渡っていたのですね」

「痴れ者が。渡っていない川をどうやって渡ったのだ。」

「えい!」男は川に向かって飛びかかった。身体は無限小に縮むが、男は無限大でもある。

「あっはっはっ!    川の向こうへ行くからには、無限を飛び越すことだ。しかし何と小さい雨筋のような川だな。」

気づくと男は川岸に打ち上げられていた。「ふん。どっちでもいいや。」とうそぶくと、男は濡れた服を乾かせそうな場所を探して去っていった。