自分という他者のこと。あるいは気がついたことの覚書。


今日、風呂に入っている時に唐突に気がついたことについて書く。

これを書き留めるということは私以外には無意味なことかもしれない。いや、おそらく私と同じ体験をした人にとっては無意味ではないだろう。

 

私は嬉しかったことや、嫌だったこと、これからしなければならないこと、これまでしてきたこと、人から言われたこと、人に言おうとしていること、これらを頭の中に思い浮かべていた。

今でも、このブログに書こうとしている言葉を頭に思い浮かべている。

私は、私の考えたことを言語化しているのである。

 

このとき、言語化されて「いる」私と、言語化され「た」私が分離されている。

私が一喜一憂しているのは、言語化され「た」私である。

言語化されている私は、言語化の客体である。

言語化された私は、言語化の結果である。

そして、言語化されている私は、言語化の客体ではありつつも、これは私自身であるから主体でもある。

客体と主体という言葉に分離されているから、客体でありかつ主体であるという奇妙な感覚を覚えるが、主客は言語化の以前において同一であり、言語化によって分断されたのだから、不思議ではない。

全く自然なことである。

 

語りえぬ者に対する沈黙の中に、私が示されたのである。

示されたということは、語られたものではない。

あたかも、私が書いた絵画の中に私は存在しないが、絵画の中に私の視線や感情が込められているようなものである。しかし、絵画は私ではない。絵画によって私は語られない。[1]このあたりの議論は野矢茂樹先生も書かれていたように思う。

 

この言語化されない私は、外界の影響により様々な言語化への衝動を生み出す。

そして言語化された言語が私であると勘違いされる。

しかし、言語化されなくても私という存在はある。(ただし、存在という言葉を用いるので、ここでも私は客体として言語化されたものとしか表現できない。それは言語化だからである。)

船の上から海に風が吹き波が立つのを見た人が、波を見て海を見たというのは、海を見ていない証拠である。

波とは別の海が示されたならば、波を見た時とは別の感慨になるだろう。

 

私は衝動故に言語化の契機を得て、私と外界とを分けることになる。

言語化とは私を表現する営みだが、それ自体は腹が減ったら食べる、眠くなったら寝るというのと契機において変わりはない。

本来は風と海がともに波を立てるように、したがって、波は風と海の一体の一つの表れであるように、外界と私も同一のものである。

食べている自分と自分は同じだし、寝ている自分と自分も同じだが、表現において区別されているにすぎない。

それに気がつけば、なんと私自身の空っぽな様よ。「私自身」と述べるから「空っぽ」と言わざるを得ないのだ。まさに「言わざるを得ない」のだ。

 

しかしそれは、私自身などというものが、それ単体で表現されるが故である。それ単体で表現されなければなんの問題もそこにはない。


References

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1 このあたりの議論は野矢茂樹先生も書かれていたように思う。

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