専門家について思うこと


専門家について考えさせられるニュースが続いた。

1 防大教授の告発

防衛大学校の現役教授である等松春夫が「危機に瀕する防衛大学校の教育」と題する論考を公表し、注目を集めた。

内容は多岐にわたるが、表題のとおり、全体を通じて、防衛大学校が教育機関の役割が果たせなくなっている(なりつつある)という強烈な危機感が詳細に論じられている。

中でも教育を担当する者達への批判は痛烈である。

「大多数の自衛官教官は、とてもその任には堪えられない人々です。修士号はおろか、まともな卒業論文さえ書いたことのない者までいます。防大に補職されてもいっこうに勉強も研究もせず、代々引き継がれているマニュアル本で紋切り型の教え方しかせず、さらには安直な陰謀論に染まる」(同論考5頁より)

「防衛大学校に最高学府としての素質がない」とまで言い切っているに等しい。そう私は読んだ。

 

2 三牧聖子の専門家観

朝日新聞に国際政治学者(同志社大学准教授)の三牧聖子のインタビュー記事が掲載された。

 

「社会を良くするために、専門知を生かすのが専門家のつとめです。そうであるからには、市民とのコミュニケーションも重要な役目です。異論や懸念を持つ市民に対して、専門知をふりかざして圧倒するような態度をとる人は、専門家とは呼べないのではないでしょうか。

専門家は国家や権力との関わり方も問われます。日本の国内外で危機や問題が山積する現在、どうしても市民に負担をお願いしなければならない局面はある。だからこそ、専門家は市民の痛みや苦しみに人一倍敏感でなければならない。市民にさまざまな負担を背負わせる政策が矢継ぎ早に成立する昨今の日本は、市民感覚を持たない『専門家』が幅を利かせているということなのかもしれません。」

この部分がTwitter上では大きな話題を呼んだ。

 

三牧の上記の指摘自体は、昔からある「象牙の塔」問題の一種であるように見える。

知的専門家集団が世間一般から離れて好き放題に活動している。世間の人達がもっと世間のことに(つまりは自分のことに)気をかけてくれと頼んでも、本から目を離さないか、仲間内でお喋りばかりしている。彼らは一般市民を疎外していて、一般市民がなにか言おうものなら、「やれやれ。素人さんはこれだから。」と嘲る。こんな感じだろう。

このような問題意識は、非専門家、一般市民の感情的な問題としては切り捨てることのできない面がある。

他方で、一般市民の感情的な問題を重視するあまり、専門家集団としての特質が変容するのではないかという指摘も見逃すことはできない。

 

「何が正しいのかを知っている可能性が高いのは誰か?」という問題と、「何故正しいのかを専門家は一般市民に説明するべきではないか?」という問題とに切り分けて、考えるしかないだろう。

何が正しいのかを知っている可能性が高いのは、やはり専門家集団だろう。まずはこの大前提を共有したい。正しいことを考える時間、環境が圧倒的に揃っていて、おそらく考える能力も高いのが、専門家集団なのである。

その上で、専門家(集団)は、一般市民に正しさを説明するべきなのかどうかという問題には、すぱっとした解答を与える能力がない。ただ、「仮に説明すべきだとして、あなた方にそれを理解する気、いやせめて聞く気くらいはあるんでしょうか。」と問い返すことくらいは許されよう。

一般市民の側に理解する気も、聞く気すらもないのであれば、およそ専門家の一般市民に対する責任を論じることは無駄だといわざるをえない。対話の契機が存在しないのであれば、対話をすべきかどうかを論じるだけ無駄なのである。

 

3 法学教室の記事「学問の自由と大学の自治」

2023年5月号の法学教室には、成城大学教授の松田浩が「学問の自由と大学の自治」と題する論考を掲載している。

松田の指摘は極めて明快である。

近代科学が、純粋に孤立した個人的営為ではなく、各ディシプリン(専門分野)に固有の手続と方法に依拠する集団的営為──研究者相互の理性的な説得と批判の無窮のプロセス──として新たな知見を創造してきた」(同論考26頁)という認識の下、ディシプリン共同体(各分野の専門家集団)によって、学問の自由(憲法23条)の保護に値する学問(つまりは表現の自由(憲法21条1項)にいう表現とは別個の保護対象)を行えるようにすることが重要であるとの指摘である。

このことから、各分野の専門家集団の代表例である大学、ひいては教授会といった組織によって、「研究・教育の内容・方法・対象等の決定」(同頁)、専門家集団としての水準を維持するための人事権の重要性を指摘し、ここに外部の圧力から守るべき大学の価値、大学の自治の目的、学問の自由の本質があるのだという結論を導いている。

なるほど、松田の依拠する共同体的学問観という、専門家集団を重視する見解は大変理解できるものである。

 

4 一般市民と専門家の関係

このように見てくると、これら3つの論考・記事はそれぞれ共通した問題点を抱えているように思われる。

それは、専門家集団と一般市民はどのような関係性であることが望ましいかという問題である。

 

防衛大学校の事例は、専門家集団であるべき集団に一般市民(と大して変わらない「専門家」)が混ざり込んでいることの問題点と捉えることができるだろう。

この問題は、防衛大学校が通常(何が通常かが著しく不透明な情勢ではあるが)の大学のような役割を果たすべきなのか、そうでなければ防衛研究所のような別の専門家集団に「学問」を丸投げしてしまうのかという問題でもあるだろう。

防衛大学校はやはり最高学府として、学問ができる自衛官を養成すべきだ(これは自由市民の養成と言い換えてもいいだろう。)という指摘が正しいのであれば、防衛大学校の学術的な専門家集団の再構築が近々の課題になりえるだろうし、そうでないならば学問以外のなにかが得意な自衛官が教壇に立てば良いということになる。

 

そして、専門家集団が構築されたとしても、一般市民(これは単なる学生や防衛大学校の学生も含む。)に対して、説明責任・解説責任・応答責任を負うのかどうかもやはり重大な問題である。

他方で、聞く気がない一般市民に対して、専門家には一体何の責任が生じるのだろうか?

ここに必要なのは相互の敬譲である。

知りたい一般市民は、知りたいのであれば、教えを乞うべきであるし、それにはそれ相応の敬意を示す必要がある。敬意は別にペコペコしろとか、敬称をつけろという話ではなく、聞く姿勢を取ることと、(税)金を払うなどして、専門家集団の維持に力添えをすることで表すことになる。

他方で、専門家の側も、そのような敬意を表する一般市民を無下にするべきではない。これは専門知がある種の公共財だからである。

 

そして、専門家集団の側には謙譲の精神が必要である。ともすれば、専門家は専門外のことでも専門家のような顔をして語ってしまうものである。このようなことをして、間違ったことを言ってしまえば、途端に専門家への信頼は崩れるだろう。

 

こういうことを考えながら、次のようなツイートをした。

 


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