映画「アニアーラ」ネタバレ感想ーー驚きを失った社会の末路


映画「アニアーラ」を観た。ネタバレが含まれるので注意してほしい。

 

火星に向けて8000人の客を乗せた巨大宇宙船「アニアーラ」が出発したが、程なくトラブルに見舞われ、漂流することになる。

船内には希望や絶望が目まぐるしく表れ、最終的には乗客全員が静かに死に絶える。

非常に救いのないあらすじである。

 

この映画の舞台設定のミソは、遭難している宇宙船ではあるものの、8000人の生活が持続可能な状況であるという点である。

水や酸素、食料、電力についても、基本的に人間が維持可能なものとして描かれている。

そして内部にも8000人いるので、人間も生殖可能で、実際に作中で子どもが生まれている。集団も維持可能なのである。

 

最初、私はこの映画を、「宇宙船地球号」的な感覚で視聴していた。

つまり、「ここで生きるしかない」という「ここ」を人間が汚し、社会の持続性を失い、崩壊し、死に絶える人間の愚かさを描いた作品と観ていた。

実際にはどうもそういう話ではなさそうなのである。

というのも、人間がアニアーラ号の内部を汚していくような描写はほとんどないのだ。

人間同士の醜い争いというものもほとんど描かれない。

 

これは単なる環境問題啓発映画ではなかった。

 

私は何故、アニアーラ号の人間達が最終的に死に絶えたのかという視点で捉え直した。

直接の原因は人手不足だ。つまり、巨大宇宙船の内部をメンテナンスするための人員がいなかったということだ。

遭難からしばらくして、船員達が乗客たちにも仕事を割り振るシーンがある。裏を返せば、乗客たちが仕事をせざるをえなくなっているという意味でもあるだろう。

このように人手不足、言い換えれば少子化、子どもが生まれてこない社会の行き着く先というのが、このアニアーラの一つのテーマなのではないだろうか。

 

さらに進んで、子どもが生まれてこなくなる過程も、なるほどと思わせるシーンがある。

アニアーラ号では途中でカルトまがいの宗教が流行り始め、フリーセックス状況が出現する。

この描写、要は「やることないからヤルしかない」ということの文学的表現にすぎないのではないだろうか。

しかし、「ヤルしかない」というのも限界がある。

訪れるたのは退屈。倦怠期だろうか。

そんな中、アニアーラ号に未知の物質が近づいてくるというイベントが起こる。

退屈や倦怠期を打ち破る「新しいこと」だ。

しかし、結局これも上手くイベントとして発展させることができず、アニアーラ号は退屈の毒に蝕まれていくのである。

生まれた子どもの数も少なく、放置気味である。

つまり、退屈、何も新しいものが生じない社会になったときに、人々は全ての気力を奪われていく。そのような様が描かれている。

 

この地球には多種多様な事物が存在する。それこそ宇宙船がどれだけ巨大でも、この多様性を再現することは不可能だ。

ほんの百年も生きていられないほとんどの人類にとって、この世界のすべてを知り尽くすことは出来ないと言うのは確かな真実だ。

他方、宇宙船はどうか。おそらく8000人が徐々に減っていく過程の中で、全てが知っていること、あるいは絶対に知り得ないことのいずれかになった時、人々は何も得るものがないのだ。

 

地球や火星に戻ることが希望かというと、この作品はそれに疑問符をつきつける。

「いい? 火星だって天国じゃないのよ」という主人公の冒頭の方のセリフはそういう意味だろう。

このセリフと同じ内容で、もっと素敵な言い回しがある。銀河鉄道の夜だ。

「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけないって僕の先生が云ったよ。」

私達は置かれた場所で生きていかなければならないのだ。そして、置かれた場所をもっといい場所にしなければならないのだ。それは善悪の問題ではなく、ただ私達が幸せに生きていくために。

それは何か新しいものへと変化していくことへの希求だ。

宇宙船の中でも退屈を克服することさえできれば、きっとそこは天国にもなりうる。

 

退屈を打ち破る変化をもたらすものは「新しいもの」だ。

そして、実際に退屈を打ち破るためには、新しいものを求める心が必要だ。

その心は「驚く」というものだろう。

「哲学」と「驚き」の関係性については昔から言われているが、この意外性が思考をはずませ、文化を育み、科学を発展させ、人類を少しずつ幸福へ導いていったのである。

 

世界に最も新しいもの、驚くべきものをもたらす事象が「出生」であると喝破したのは哲学者ハンナ・アーレントである。

アニアーラ号はこの基本的な「何か新しいことの始まり」を生み出すことがなくなった時点で、死滅が確定した。

 

アニアーラ号という狭い空間に閉じ込められて、人々は驚く出来事を失っていった。全ては知っているものか、知り得ないものに分類されたからである。

人々が驚くためには、出生、子どもを産み育てる必要があったが、これ自体も恋愛という要素が必要で、それには「新鮮さ」や「驚き」が必要だが、これ自体は本能でどうにでもなったはずである。

しかし、宇宙船内の秩序を守るためという理由で同質性を帯び始めた人々には、新鮮さや驚きは恋愛面でも失われていったのだろう。

(主人公の同性愛が描かれているのは、恋愛に非同質性が不可欠であることの表現だと思う。)

こうすると恋愛が生じない、子どもが生まれない、新しいものが生まれない、人々は退屈で気力を奪われていく、死に絶えるという、どこかで聞いたような住んだような社会の構造が見えてくる。

「アニアーラ」という映画は、まさにこのような過程を静かに描き出すことによって、まるで過疎の村が消えていくような静かな描写で、ゆったりとした絶望を描いているのである。

私達の社会への警鐘、あるいは揶揄といってもよいだろう。

 

ハンナ・アーレントは『人間の条件』で次のように表現している。

人間事象の領域である世界は、そのまま放置すれば「自然に」破滅する。それを救う奇蹟というのは、究極的には、人間の出生という事実であり、活動の能力も存在論的にはこの出生にもとづいている。いいかえれば、それは、新しい人びとの誕生であり、新しい始まりであり、人びとが誕生したことによって行いうる活動である。この能力が完全に経験されて初めて、人間事象に信仰と希望が与えられる。

(中略)

福音書が「福音」を告げたとき、そのわずかな言葉の中で、最も光栄ある、最も簡潔な表現で語られたのは、世界にたいするこの信仰と希望である。そのわずかな言葉とはこうである。「わたしたちのもとに子供が生まれた」。

(ハンナ・アレント『人間の条件』志水速雄訳、1994、筑摩書房、385-386頁)

アニアーラはまさに福音なき世界の悲しい映画なのである。


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