法テラスは弁護士の社会的信頼を高めているのか?


1.疑問

法テラスは弁護士の社会的信頼を高めているのだろうか? まあ一応は高めているように思われる。

 

2.社会的信頼?

そもそも、ここでいう社会的信頼というのはいまいちわからない。[1]むしろ分析しない方がいいのではないかとさえ思う。分析によって、12時過ぎのシンデレラのように魔法が解けるはめになるかもしれない。

社会的信頼は様々な側面を持つ言葉だ。弁護士が活動する前と、活動する段階とで社会的信頼があるという状態を考えてみよう。

(1)選択されるという意味での社会的信頼

1つは困った時に頼りにするという面だろう。

例えば借金を返してもらえなくて困っているとしよう。貸主が弁護士という職業に信頼をおいていないとすれば、共通の知人に頼るかもしれない。警察、ヤクザ、事件屋に頼るかもしれない。誰も頼れないということであれば自力救済に走るかもしれない。

困った時に弁護士に依頼するという選択肢が社会一般から生じくにくくなる状態が「社会的信頼がない」状態だ。裏を返せば、困った時に弁護士という選択肢が自然と出てくる状態が「社会的信頼がある」状態と言ってよいだろう。

(2)敬意を払われるという意味での社会的信頼

もう1つは単純に敬意を払われるという面だろう。初対面の人からは、たいてい「先生」と呼ばれる。敬意という側面は軽視できない。弁護士としての仕事のしやすさに関係してくるからだ。人は敬意を払う人間には一応耳を傾ける。その敬意が本心であるかどうかは関係ない。[2] … Continue reading

内心どう思っていようと、弁護士という肩書に対して、いきなり帰れと怒鳴りつけたりとか、話もしないというようなことはほとんどない。公的な機関だとなおさらである。生活保護申請の同行では「先生がいると態度が違いました。」という申請者が少なくない。それはそれで問題なのだが、ひとまず良い結果を出すための下地なのだ。

弁護士が敬意を払われない存在だったらどうなるか。おそらく生活保護申請に同行しようと「はい、今日は相談ということで。」とまともに話も聞かれずに、門前払いを食らわされるかもしれない。相手方は弁護士を舐めてかかって恫喝してくるかもしれない。それで屈する弁護士はほぼいないだろうが、仕事は随分しにくくなるだろう。警察や役所、学校等でこのようなことが起きればどうなるか。国民全体の幸福が低下するだろう。

そして何も敬意という要素は相手方にのみ影響するものではない。相談者や依頼者にとってもそうだ。敬意を払う存在だからこそ、弁護士の言葉には一定の重みが生じる。例えば「あなたの要求をかなえることは難しい。」と言わなければならない局面は多い。このときに相談者や依頼者がその結果を受け入れるためには、弁護士の言葉に耳を傾けなければならない。「先生がいうなら、そうなんでしょう。仕方がありません。諦めます。」このように思わせることは残念なことであり、自分自身の力不足を感じることもある。しかし、他方で、この相談者は次に進めることができる面も否定できないだろう。

弁護士が相談者や依頼者にも敬意を払われない存在であればどうか? 多くの相談者や依頼者は「もっと使える弁護士を探そう。」と考えるだろう。弁護士の説明に耳を傾けられないので、なぜ無理なのかを理解できない。そのため、弁護士に無茶な要求を繰り返すようになろうだろう。弁護士も説明により多くの時間をかけなければならなくなるだろう。[3]もとより丁寧な説明が最低限必要なのはいうまでもない。

(3)小括

いったんまとめると、

  1. 弁護士に困難を解決させる選択肢が社会に自然と生じる状況
  2. 弁護士の発する言葉や活動を社会が自然と受け入れる状況

以上の状況が社会で見られれば見られるほど、「弁護士に社会的信頼がある。」といってよいだろう。

 

3.社会的信頼を確保する手段

「正当な権利を実際に実現すること」が社会的な信頼の最大の基礎だろう。

(1)国家への信頼を手掛かりに

かなり話は飛躍するが、国家と暴力の関係に似ている。

ア 暴力の独占

国家権力は我々から暴力という手段を奪っている。暴力は国家の独占物である。この暴力の独占は、自ら暴力を振るおうとしている個人に対しても威嚇として効果を発揮する。日本の治安が良いのは、国民性だけが理由ではない。警察がそれなりに成果をあげて、処罰されるべきものが処罰されているということも大きい。

だからこそ我々は国家において安全に平和に生存することができる。それゆえ、私達は「いざというときに国は守ってくれない。」などと言いながら自ら武装したりはしない。警察に通報する前に万引き犯をリンチしようともしない。これは国家が我々の安全と正義を守ってくれると信頼しているからである。見方を変えれば、国家が適切に暴力を行使しているということだ。国家が適切に暴力を行使しているからこそ、国家は国民から信頼される。

なお、ここでいう暴力とは厳密に物理的な腕力や武器の使用というだけではない。広く国家権力が振るわれた時に従わざるをえなくする力ぐらいに捉えている。

また、独占まででなくても、最低限、敵を打ち負かせる程度の暴力を有していればいい。だから信頼は「十分な暴力手段の保持」があれば確保できる。

イ 適切な暴力の行使

このような暴力を無秩序に振るえば信頼はされない。適切に暴力を行使していく必要がある。ここでいう適切さとは次の3つだ。暴力を振るってはいけない人に振るわないこと。暴力を振るいすぎてはならないこと。公平であること。我々法律家はよく「必要性」「相当性」「公平性」という概念を使う。とはいえ、この考察でいう必要性、相当性、公平性は法的な要素というよりも、国家が信頼を確保するための要素だから、あえて言うなら政治的な要素である。

誤認逮捕や冤罪死刑判決はまさに暴力を振るう必要性を見誤った悲劇である。捕まえるべき者ではないものを捕まえ、殺すべきでない者を殺す国家はヤクザと同じだ。国民から信頼される国家ではない。これが必要性の話。

わが国では一定の精神障害者を強制入院させる制度がある。その当否はさておき、国家は精神障害者に暴力を振るう必要性を認めているということだ。しかし、精神障害者に対する暴力が明らかに相当性を欠いた場合は適切とは言えない。最近改めて問題になったのは精神障害者に対する強制不妊手術だ。明らかにやりすぎなのである。[4] … Continue readingこれが相当性の話。

そして公平性だ。公平性も難しい概念だ。誰と誰の間の公平性に注目するかも様々ある。「人を殺した者は殺されるべきである。」は加害者と被害者の公平性の話だ。ただ、警察は不祥事の発表でも警察官の氏名を明らかにしない。一般市民ならば逮捕の日時をリークしてお茶の間に顔を晒させる。これは公務員と国民の間の公平性の問題である。同じ物を万引きした2人の犯罪者がいて、1人は実刑、もう1人は起訴猶予。これも不公平だ。公平にするために、「軽い方」を重くするのか、「重い方」を軽くするのかも様々な考え方がある。[5]最近の日本では往々にして「厳罰化」の方がウケが良いのだが。これは相当性の基準が変化しているという問題と関係する。

ウ 暴力の説明

もう1つ重要なことがある。それは暴力を適切に行使してることを国民に納得させることだ。どんなに適切だろうとそのことが理解されていなければ、単なる暴力装置にしか見えない。

アンパンマンがバイキンマンを殴り倒しても信頼を確保し続けられるのはなぜか? バイキンマンの悪事を目撃した者の前でバイキンマンを殴り倒すからである。言い換えればアンパンマンはバイキンマンを殴る理由をカバおくんやウサこちゃんにも説明できる。そして納得させることもできるからだ。

ジャムおじさんが、パン工場の地下で、みみ先生率いる学校を虐殺するための細菌兵器を製造していたとしよう。大量殺人(人?)を阻止するためにアンパンマンがジャムおじさんを拘束する。みんなにどう説明するだろうか? ジャムおじさんは「新しいイースト菌を開発する過程でたまたまできてしまったんですよ。すぐに捨てるつもりで悪気はなかったんです。アンパンマンにも説明したんですが、信じてくれずにこんなことになってしまいました。アンパンマンは親(?)不幸者です。私は皆さんにいつも美味しいパンを低価格で供給してきたではありませんか。そんな私がどうしてあなたたちを……おそろしい。きっとアンパンマンはパン工場を我が物にしようとして、私を……うっうっ」ここまできたら陰謀論である。アンパンマンは自らへの信頼を確保するためにジャムおじさんを拘束した理由を説明しなければならない。

ちなみに、アメリカはイラクに大量破壊兵器があると主張して戦争を始めた。結局大量破壊兵器はなかった。少なくとも開戦理由になるようなものは。それがアメリカという暴力的な国家の有り様である。アメリカは力に任せた暴力国家であり、信頼に値する国家ではないとういことになる。暴力を行使することを納得させられなければ信頼は地に落ちるのである。

なぜ正しいのかを納得させるための装置として、立法機関があり、裁判制度があり、情報開示がある。

エ 小括

まとめよう。国家への社会的信頼は次の3つから確保されている。

  1. 国家が、暴力手段を十分に所持していること
  2. 国家が、必要な時に、やりすぎない程度に、公平に暴力を行使していること
  3. 国家が、暴力の行使を社会に納得させること

非常にざっくりいえば「かっこいい正義の味方」であることが、頼りになる存在という理解につながり、社会的信頼の確保へつながるのである。

(2)弁護士への社会的信頼の確保とは

大分遠回りしたが、ようやく弁護士の社会的信頼の話に戻ろう。

国家への社会的信頼を参考にしつつ、弁護士が社会的信頼を確保するためにはどうしたらよいのかを考えるのである。先にまとめを出してしまおう。

  1. 弁護士が、権利を実現する力を十分に所持していること
  2. 弁護士が、必要な時に、許される範囲で、公平に権利を実現していること
  3. 弁護士が、権利の実現を社会に納得させること

「かっこいい正義の味方」であることが、社会的信頼の確保へつながる。このことは弁護士にも当てはまるだろう。

ア 最も大事な専門性

弁護士の社会的信頼の大部分は、弁護士という職業の専門性に基づく。法的知識をもってトラブルを解決するということは、相当な訓練が必要なのである。それは裁判を実際にしてみればわかる。本人訴訟はよっぽど単純な事件でなければ、提訴すら困難である。弁護士が法律を使って(一般人に比べれば)サクサクっと相談者や依頼者のための書類を書き、裁判手続を進めていく姿は、「先生にしかできないことだ」という意識を生むだろう。これが信頼につながることは言うまでもない。

専門性は膨大な知識と研鑽に裏打ちされたものだ。だから弁護士が多くの知識や技術を身に着けることは弁護士への信頼を高めることにつながる。

イ 経済的な公平性

とはいえ、その他の要素が軽視されるわけにもいかないだろう。弁護士の社会的責任は適切な弁護士活動(業務)にもあるのだ。医者の多くが「金持ちしか診ない」と言い始めたらどうだろうか。医者への信頼は地に落ちるのではなかろうか。[6] … Continue reading病気やケガは命にかかわるからだと思うだろうか。いや、法的トラブルだってそうではないか。冤罪被害者、子を取られた父親、養育費が入ってこない母親、物を言いたくても言えない子ども達、みんな幸福な人生がかかっているのである。

「金さえあれば弁護士に依頼して一緒に戦ってもらえるのに。」

こんな思いが世間に蔓延すれば弁護士の社会的評価は低下するだろう。人々の発想の中から弁護士という選択肢は排除されていく。そのことを意識的にせよ無意識的にせよ理解している弁護士は多い。だからこそ、じゃがいもで弁護料を受け取った尊属殺人犯の弁護人がいた。手弁当で多くの弁護団活動をする弁護士がいる。個別の事務所でも分割での支払いや弁護士報酬の減額に応じる弁護士がいるのである。

ウ その他

ほかにもあるだろうが、この考察からはいったん外そう。1つだけ備忘的に述べておくと、私たちは法律事務によって社会を動かすが、その多くは国家の暴力を背景にしたものである。このことが弁護士と公権力の微妙な関係を生み出す。

4.法テラス

(1)経済的公平性のため

法テラスという仕組みは、一定の資力基準以下の人たちに弁護士費用を援助するための仕組みだ。まさに「普通だったら経済的に弁護士を頼むことができなかった人」のためにある仕組みといえる。

弁護士という選択肢を選択可能にしたという意味では法テラスは弁護士の社会的信頼の確保に寄与したと言えなくはない。

もっとも、そのことをもっと世間に周知すべきである。「弁護士は経済的弱者の事件でも受けているんだぞ(しかも総額も通常よりも低額で)」ということを知らしめなければ、社会的信頼には結びつかない。

(2)とまれ法テラスは滅ぼされるべきである

ここまで言ってはいるものの、弁護士である私は現在の法テラスの制度は滅ぼされるべきだと考えている。

これも当初の問から大きく離れてしまうので簡潔に述べる。弁護士にとって法テラスが滅ぼされるべき理由は、弁護士の社会的信頼を確保しようとしながら、弁護士の経済的な基盤を掘り崩し、弁護士そのものを直接破壊しようとしているからである。武士は食わねど高楊枝を強要する制度は許されない。この1点のみをもってしても、法テラスは滅ぼされるべきである。

5.おわりに

この記事を書くきっかけになったのは、「法テラスにフリーライドしている弁護士」などという言説をTwitterで見かけたからである。それは元々のTweetの誤読に基づくものであると思われた。[7]そのような誤読がまかりとおったことは、弁護士らの読解能力や一次情報にあたる能力を疑う結果になってしまった。

元々のツイートの趣旨は「法テラスを利用した事件を受ける弁護士がいるから、弁護士の社会的信頼が高まり、法テラスを利用した事件を受けない弁護士も、結果としてその社会的信頼にフリーライドしている。」というものだった。

この記事で考察したように、法テラスが社会的信頼を高める可能性のある仕組みだということは認められるだろう。一方で、それが十分に高めているかと言われれば疑問ではある。法テラスのことなんて知らない人が大多数だからである。

もっとも、法テラスを利用して経済的弱者の権利を実現していく弁護士の存在は、弁護士の狂戦士性を見ることもできるだろう。経済的弱者に被害を与えている側にとっては暴力性さえ感じるのではないか。これが正義の味方という評価につなげられれば社会的信頼にもつながるだろう。もっとも、それも奏功しているとは言い難い。弁護士はアピール力が弱いのである。

要は法テラスを利用によって生じた社会的信頼は、法テラスを利用した事件を受けない弁護士がフリーライドしていることを実感・納得できるほどのものではない。そこに解釈の違いも相まって、元ツイが叩かれる羽目になったように思われる。

とまれ法テラスは滅ぼされるべきである。

 

参考

・本人訴訟については以前別の記事を書いた。

本人訴訟について

法テラス

・とまれ法テラスは滅ぼされるべきである

カルタゴ農法の元ネタと大カトーについて雑記。


References

References
1 むしろ分析しない方がいいのではないかとさえ思う。分析によって、12時過ぎのシンデレラのように魔法が解けるはめになるかもしれない。
2 というより敬意というのは本質的にすべからく表面的である。相手に礼儀正しく見せなければならないという心理的圧力が敬意の本質だからである。
3 もとより丁寧な説明が最低限必要なのはいうまでもない。
4 法的な理屈で言えば、そもそも強制不妊手術をする必要性さえ認めてはいけないということになるだろう。本文中でも述べたように、相当性と必要性の概念は法的な判断枠組みで用いているものではないのでずれが生じる。
5 最近の日本では往々にして「厳罰化」の方がウケが良いのだが。これは相当性の基準が変化しているという問題と関係する。
6 奇しくも先日亡くなった徳田虎雄が「生命だけは平等だ」というスローガンの下、鬼のような医業を実践し続けたことを思わざるを得ない。彼の活動の原動力は幼い弟が貧しさゆえに医師に見捨てられたことにあった。
7 そのような誤読がまかりとおったことは、弁護士らの読解能力や一次情報にあたる能力を疑う結果になってしまった。

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