東京五輪の選手村に金で装飾されたトイレが設置されたとのことである。
選手村の「メイン玄関」と言える代表的な施設「ビレッジプラザ」の中には「金の装飾トイレ」を設置。正面エントランス横の男女トイレに、東京大会のゴールドパートナー(住宅設備部材&水回り備品)であるLIXIL社が納入した。
https://www.nikkansports.com/olympic/tokyo2020/news/202106200000378.html [1]令和3年6月20日閲覧。
LIXIL社は良い宣伝になっただろう。
個人的所感
金の便器の設置に個人的には低俗さを隠しきれていないと思う。誰か止めなかったのだろうか?
これのどこがおもてなしになるのだろうか。
選手が使う便所にこれだけ金をかけておきながら、同じ選手が眠るベッドはダンボール製なのだから。面白い話である。ダンボール製ベッドも強度・寝心地ともに問題ないそうだ。安くて環境に配慮した製品とのことだが、知恵を絞ればこういうことができる。
ベッドフレームは段ボール製で持続可能性に配慮した。大会公式パートナーの寝具メーカー「エアウィーヴ」(東京)が一式を提供する。
https://www.asahi.com/articles/ASM9S4J9BM9SUTIL01V.html [2]令和3年6月20日閲覧
段ボールベッドはほんとかどうかはともかく、環境に優しいというメッセージ性がある。金のトイレには一体何のメッセージがあるのか。
「日本人はトイレに金が使えるほど金持ちなんですよ。」というアピールだろうか。五輪中止の損害賠償に怯える程度の貧乏国家がよくいうわ。
「日本にはこんなに素晴らしい金工技術があるんですよ。」というアピールだろうか。それなら別に便所でなくてもよいだろ。デザインを観たが、別に難しそうな技術も見えなかった。
「私達の用便に金を使ってくれるだなんて! 素敵!」と選手らが思ってくれるとでも思ったのだろうか? あまりにアスリートをバカにし過ぎではないだろうか。それより安っぽい飯の問題を改善したのだろうか?
https://president.jp/articles/-/45922?page=3 [3]令和3年6月20日閲覧
バカにされているのは国民
金の装飾トイレと聞いて真っ先に思い出されたのは、トマス・モア『ユートピア』だった。
「金や銀でだいたい彼らは何をつくるかといえば、実に便器である。(中略)金というものは元来それ自体としては何の役にもたたないものである。にもかかわらず今日全世界の人々の間において非常に尊重されている、それも、元来なら人間によって、そうだ、人間が用いるからこそ、尊重されていたのに、今では逆に人間自体よりももっと尊重されている。」(トマス・モア著、平井正穂訳『ユートピア』岩波文庫,1957年,pp.103-107.)
ユートピアで便器に金が使われていたのは、金に対する嫌悪感を植え付けるためだった。それもまた極端な話ではある。ただ、ユートピア人の発想は、人間こそ尊重されるべきであって、金銀を人間より尊重することがあってはならないというものだった。非常に「ユートピア的」な発想である。
対して、我が国でも同じように金を便器に使ったわけだが、ユートピアの発想とは真逆である。まさに、便器にさえ金を使うのに、人のためには金を使わないという発想である。
2018年にも同じようなことを嘆いた。
実に、拝金主義の極み。「金のためならコロナがどうした、多少の犠牲だ。」そう言わんばかりの五輪推進論者の非人道精神が表れたいい象徴になるだろう。
ともあれ、五輪は中止されるべきである
スポーツの祭典などと抜かしておきながら、コロナで生命身体を危うくし、精神的にも不平等・不公平・無為無策・不安に怒り、そして呆れが渦巻く五輪だ。
どんなに必要なところにも金は回らない。
どんなに必要な行事でも自粛が迫られる。
五輪だけが特別扱いの世界である。
こんな不正義のイベントは他に戦争くらいのものだろう。