1 前回までの検討
前回の検討はこちら。
大雑把にまとめると、次のようになる。
1 性行為の合法違法を議論する基本的な前提として、性行為は原則自由であるべきか、原則禁止されるべきかを整理する必要がある。私は原則自由の立場である。
2 原則自由の立場は、原則禁止の立場と、同意のない性行為が違法であるとの方針を共有できる。
3 但し、違法となる同意のない性行為の「同意」とはどのようなものか、またどのように有無を判断されるか、整理される必要がある。
2 前回の補足
(1) 違法合法の意味
ここでいう違法合法は、刑事責任を負わせるかどうか(処罰するか否か)の問題とイコールではない。
法的に正しいとは言えないが(違法)、刑事責任は生じない例はいくらでもある。
違法合法はもっとふんわりとした「悪いことなのかどうか」「いけないことなのかどうか」という抽象的な観点で検討されている。
(2) 原則自由の立場と不同意性行為の関係
もう1つ補足する。原則自由の立場から、不同意性行為が違法であるとの方針を共有できる理由についてである。その理由はこうである。
性行為の自由とは、性行為をする自由であると同時に、性行為をしない自由でもあると考える。
不同意性行為とは、性行為をしない自由(性行為に同意しない自由)に反する。
したがって、原則自由の立場からも不同意性行為は「悪いこと」と評価できる。
3 今回の検討
(1)状況設定
今回は次の状況を想定しよう。
状況2
愛し合うカップルA(男・14歳)とB(女・14歳)がいる。2人はAの家のAの部屋にいる。そして、今まさに同意により性交(男性器を女性器に挿入することを言う。以下同じ。)に及ぼうとする。
さてAとBの性行為を妨害することは違法か否か。
前回の記事の状況1はAとBが30歳だったわけだが、今回は14歳である。
(2)私の回答
私は妨害が例外的に許されると考える。性行為原則自由の立場であるため、あくまでも例外的に許容できないという立場である。
(3)性行為自由の原則の基本的立場
性行為は原則として自由であるべきだ。それは幸福追求が認められるべきという大前提があるからだ。人は自由であったほうが、幸福になれる可能性が高まる。
つまり、自由は幸福になるために必要だ。
幸福になれないような自由の行使、将来の幸福を台無しにするような刹那的な幸福のための自由の行使は、自由の目的に反する手段として、一定の制限が許容される。
(4)現在の幸福と将来の幸福の優越関係
もっとも、後の幸福よりも刹那的な幸福を重視して何が悪いという意見もある。
「そんなことでは幸福にはなれないぞ。」「将来のために今は我慢しろ。」
このような言葉は善意から発されているのであろう。
しかし、それはそれとして、現在の自由を制限していることも明らかだ。
本来的には、後の幸福と刹那的な幸福のどちらを選択するかは自由なはずである。
たとえ話をしよう。飲み水が尽きた救命ボートに漂流する2人がいる。喉の乾きに耐えかねて1人が海水を飲もうとする。海水を飲めば一瞬ではあるが乾きが言えるであろう。しかし、その後に待っているのは早まった死。それもかなりきつい死に方である。さて、残りの1人は相手が海水を飲もうとすることを止めるべきか否か。
状況2と問題の構造に共通している部分がある。[1] … Continue reading
(5)選択の自由の基本
将来の幸福よりも現在の幸福のほうが良い。いやいや現在の幸福よりも、将来の幸福を取るべきだ。
このような論争が成立する前提を押さえる必要がある。その前提とは選択の自由が確保されているということである。
将来の幸福(あるいは不幸)を天秤に乗せることが出来なければ、現在の幸福のみが重く見られることは当然であろう。
私が子ども同士の性交を妨害しても良いという立場に立つのは、子どもは例外的に性交による利益と損失を考慮する知識と能力に欠けていると考えるからだ。
知識と能力に欠けているから、子どもには性交をすることの同意ができない。
「する」「しない」、「今幸せになる」「後から幸せになる」という選択肢を十分に検討する時間と能力があってこそ、「する」同意、「今幸せになる」同意が真に価値をもつのである。
「する」選択肢しか与えずに、「することに同意した!」と評価することは、同意の価値を毀損するだろう。
では価値のある同意をするために、どのような損害と利益があることを知るべきなのだろうか。
おそらく類型的に、身体的、精神的、経済的なものに分類できるだろう。
身体的な面
子どもの身体は未成熟である。性交により負傷するおそれなしとはしない。一旦負傷した場合にそれが回復可能なものもあるだろうし、回復不可能なものもあるだろう。果たして、今から行う性交が身体的な安全を確保して行えると判断できるだろうか。
ロマンもへったくれもない言い方をすれば、これは性交の技術的な問題であって、愛情とかなんとかの話ではない。
技術がともなわずに怪我をさせてしまい、それが取り返しのつかない傷を生みかねないのであれば、やはりその危険を考慮して未熟者にはさせないという判断がありうると私は思う。
当然、妊娠のリスクは身体的なリスクのうち最大のものの1つだろう。避妊も技術である。
このような技術が必要で、どの程度必要かということすら、子どもには知識がない。
とすれば、「この程度の安全性でよいだろう。」と不十分不確実な知識に基づき、性交に不適切な同意をし、良くない結果を生じさせる可能性がある。
もっとも、こと身体的な問題から妨害の可否を見ると次のようにも考えられるところである。
つまり、身体的に問題が生じないような行為であればよいのではないかという考えである。
性交でこれを考慮できるとするのは無理があるだろう。性交は必然的に身体への侵襲を伴うからである。
その他の性行為はどうだろうか。口淫、肛門性交はもちろん、身体に触れる性行為一般は、身体的なリスクをいずれも生ぜしめると言ってよいだろうと思う。
難しいのは裸体の見せあい、あるいは一人で行う性行為の公開であるが、身体的なリスクでいうと(回数や場所によるが)なしと言わざるを得ないのではないか。
とすれば、例えば自慰行為の見せあいなどは、身体的リスクの面から禁止妨害することに正当性がないということになるのではないか。
また、技術が伴えばよいのではないかという批判はありうるが、技術をどうやって評価するかの問題は残る。
外出しすれば妊娠しないと思っている男がいる以上はこの点の評価は少なくとも慎重に行うべきではないだろうか。
精神的な面
少なくとも「こいつとは嫌」という人間と性交させられるのは苦痛であろう。苦痛の程度も明日には忘れる罰ゲーム程度の話で済むのか、一生のトラウマになるのかはケースバイケースだ。
こいつとは嫌というだけの話ではなく、自己投棄的なあるいは自傷行為的な性交の同意についての有効性も慎重に考えざるを得ないのではないかと思う。精神的に不安定な状態での同意というのは、利害をうまく認識して比較できないと思う[2]なお、では精神障害者は性交の同意をしえないのだろうかという割と致命的な論点が生じる。。
性交後に妊娠出産して進学を諦めざるを得なくなったらどうだろうか。また身体的にも経済的にも問題を生じさせないような性交であったとしても、それが金で買われた性交だったらどうであろうか。ゆくゆく後悔するようなことは無いだろうか。
この意味では、性交にとどまらず性行為もそうだろう。
また、少し話はずれるが性行為の記録化も精神的な問題を引き起こす危険性があるだろう。
これらの危険性を子どもがどの程度把握しているか(想像が及んでいるか)という点が、同意の価値の評価に関わってくる。
なお、暴行・強迫・欺罔・あるいは商品化といった事情が精神的な問題を引き起こす危険をはらむのは当然だ。少なくとも児童の性行為に強制や搾取の要素があるのであれば、それはそのことを理由に妨害・禁止すべきものだと思う。
子どもが今まさに行おうとしている性行為が、暴行・強迫・欺罔・商品化といった強制や搾取の危険がない性行為であるかどうかの判断は困難なのではないだろうか。
この意味でも、同意の価値は減るか無くなるかするだろう。
経済的な面
ここでいう経済的なリスクは妊娠出産を踏まえたリスクと言い換えても良い。
お小遣いの範囲でラブホに行こうと、大人のおもちゃを買おうと、避妊具を買おうと、それは経済的なリスクとして考慮すべきではない。
もちろん、ラブホ街に行くことの危険性、大人のおもちゃを使用することの危険性、避妊具を正しく使えるかどうかの問題等は別問題である。それは身体的なリスク等で検討されるべきだ。
やはり人が一人増えるということは、生きていく上での金銭の必要性も考慮しなければならないだろう。
生み育てる子どもの側からみれば、生まれてくる子どもの生活費をどうするかという問題に直面し、自身の経済的基盤を作るために、必死にならなければならないだろう。
他方、生まれてくる子どもの側から見れば、経済的な困窮は死をも意味する重大事である。
どちらの側にとっても、経済的なリスクは考慮せざるを得ないのである。
このあたりのリスクを、子どもが我が事のように想定する能力はいかほどか。
「いいぜ! おれはこいつと結婚して、バリバリはたらくぜ!」という気概があればそれはそれで良いとして、「で、具体的にどうすんの?」という話である。
この意味でも子どもの同意にどれほど真摯さが認められるかが慎重に検討されるべきである。
他方、そのような経済的なリスクを社会が負えるのであれば、問題は無いとも言えるのだろう。
実際にはそんな社会ではなく、子どもが経済的な負担をしょえる社会でもないので、現時点では子どもの性交が子ども自身を不幸にしてしまうおそれがあり、これを禁止妨害することには理由があるだろう。
妊娠出産のリスクを生ぜしめない性行為についても、病院送りになるような場合は経済的なリスクを考慮すべきだろう。
そのような可能性ない性行為があるとすればどうだろうか。これについて経済的なリスクを考慮して、同意が認められないという主張は的を射ない。そもそも、比較考量すべき経済的リスクがないのだから。
(6) 一旦のまとめ
およそ14歳の子どもの性交については、身体的、精神的、経済的いずれから見ても、これを妨害することは許されるように思う。
例えば特殊な性行為(自慰の見せあい)等についても、精神面のリスクを考慮することになろう。
仮に精神的リスクが存在しないということであれば、これを禁止妨害する正当性を説明することは中々困難に思われる。
(7) 別の立場
妨害するべきではないと考える論者からは次の3つの考えが論点として提示されるのではないか。
他の行為と同じではないか
身体的なリスクが生じるといえば、体育の時間だってそうではないか。武道だってそうではないか。そうとも言える。
ただ、体育や武道では、身体的なリスクが生じないように責任者の監視があるのが通常だろう。性行為とはこの点が異なる。
また、身体的・精神的・経済的なリスクが三拍子で生じるような行為は他にあるのだろうか。やはり性行為の特殊性は考慮に入れて良いように思われる。
大人も同じではないか
性行為に関して大人が上記の身体的・精神的・経済的なリスクをどこまで考慮しているのか?
もしこれらを考慮しない同意に価値がないということであれば、大人も性行為に同意していないといわざるをえないケースは多々あるのではないか?
にもかかわらず、大人は許され、子どもは許されないというのは首尾一貫していないではないか。
このような指摘もありうる。
この指摘にまとまった反論をすることはできない。この場で述べておきたいのは、やはり成長過程で社会が保護すべき人間なのか、それとも成長したものとして自己責任が問われるべき人間なのかの違いであろう。
もちろん、この指摘は搾取・強制の要素に放り込まれた被害者に自己責任があるということは意味していない。
例えば成人男女のカップルがリスクを考慮せずに、また互いに強制も搾取もせず性行為をして、性病に罹患したということであれば、心身の負担や治療費の負担を負うのは自己の責任であると言ってよいのではないか。
なお、この指摘で義務教育と紐付ければ同意可能な年齢に関する一つの指標が導かれる。このことも今回は詳述できない。
処罰の対象が広がるのではないか
妨害するべきであるとは述べたが、妨害に刑罰による威嚇を認めるかどうかは別問題である。
私は妨害しても良いとは思っているが、一切合切すべてを処罰してほしいとまでは思わない。
もちろん、子どもであっても搾取・強制の加害者になった場合には別である。この場合は刑罰か教育かの調整を図って何らかの強制的な手段が講じられるべきだろう。