LINEニュースの記事に使われた「おもんぱかった」という日本語を知らないキッズ達が「『おもんぱかる』って何だよwww」と誤字扱いしたという事例があった。
ネットニュース等では、若者の日本語離れと嘆く声、目の前のスマホで調べりゃ分かることを誤字だと決めつける浅はかさ笑う声が取り上げられた。
もう一つ。Twitterでのなろう作家の嘆き。
「読者にちゃんと伝わるわかり易い文章を」と言われるが、「刃を滑らせた」という表現を「刃で切った」という意味と受け取れず、「なんで血が?」と疑問を口にした読者に対し「最低限の読解力は必要だろ」と嘆いていた。
これらの事例は若者叩きの文脈で取り上げられる雰囲気が多いが、基本とんでもなく読解力が低い人はどの年齢にも万遍なくいるというのが私の実感だ。まあ、本当に若者は言葉を知らないのかもしれないが。
私の実感だけで語らせてもらうと、ここには永遠の対立が横たわっている。
すなわち、読めない文章を書く書き手が悪いのか、文章を読めない読み手が悪いのか、という対立である。
「なんて分かりにくい文章なんだ・・・。簡単なことを小難しく書きやがって」という感想と、
「なんでこんな文章も読めないんだ。今までどうやって生きてきたのか謎」という感想のぶつかり合いだ。
この対立は解消できるものと解消できないものに分けられる。
明らかに読み手が悪いものとして、ただ単に言葉を知らんというのはやはりダメだろうと思う。
まずは調べろよ、と。そうでなければ新しい言葉は頭に入ってこないわけだ。そんなに簡単な言葉しか見聞きしたくないなら、絵本でも読んでろと思う。
この対立は意味をきちんと教えるなり、調べるなりすることで解消できる。
他方、解消できないのは、論理が難しいとか、用語のセンスが小難しいとか、とりあえずカタカナを多用するとか、そういう読みにくさだ。読みにくさは結局相対的なもので、絶対的に書き手と読み手のどちらかが悪いというものではない。
上で紹介したなろう作家さんは良いことを言っている。
「読者にも歩み寄って欲しい」
文章というのは書き手と読み手の共同作業なのだ。
書き手はなるべく意味が通るように書く、読み手はなるべく考えて読む。
結局「読めないのはあいつが悪い」と言いつのるだけではどちらにも進歩がないのだから。