徳政令というと借金を帳消しにする命令というイメージがあった。悪徳高利貸しからの取り立てに困り果てた貧しい農民を救う、そういう命令だ、と。
早島大祐の『徳政令 なぜ借金は返さなければならないのか』を読むと、このイメージが浅はかであるということがよくわかった。
徳政令も日本の歴史においてずっと同じ意味だったわけではなく、当初は善政のイメージから、段々と悪政のイメージへと変わっていく様子がわかりやすく記載されている。
室町時代が、江戸時代のように米を媒介にした経済ではなく、貨幣経済であったという記載もあり、室町時代そのもののイメージも大きく変わった。
感想1 借金を返さなければならない理由
借金を返さなければならない理由は、「信用問題だから。」ということになろうか。
借金というと悪いイメージがあるかもしれない。
借金は、やりたいことをやるのに金がない人が、特段やりたいことがあるわけではないけど金がある人から、一時的に金を受け取るという行為だ。だから、本来は、その「やりたいこと」がパチンコとか贅沢だとかになれば悪いイメージになるし、商売の元手にするとか、病院代にするとか、そういうことであればやむを得ないイメージや、良いイメージになる。
また、一時的でなくて、ずーっと返ってこないということになると、話が違うということで悪いイメージになる。反面、きちんと返ってきさえすれば、借金に問題なんてないわけである。
徳政令はその意味からすると、わりと問題なのである。結局、貸した金が返ってこないということになるのであれば、誰も金を貸さない。だから、やむを得ず、あるいは、望ましい借金さえもできなくなる。目的がどんなに許容範囲でも、最終的に金が返ってこないのであれば借金という制度は成り立たないのだ。
まさに徳政令の末期のイメージである。金の貸し借り、債権債務という金銭関係について、誰も誰かを信用できる状況ではなくなっているのだ。それによって、借りる必要が生じても、誰も金を満足に借りられなくなるという事態になる。
しかし、今の日本ではプチ徳政令は日々発されている。
それは自己破産の免責制度である。現在の日本では、よほどの浪費やギャンブルでも無い限り、自己破産すれば免責されて、借金がチャラになる。本来であれば免責されないはずなのだが、裁量免責といって、裁判官が「今回限りだぞ」と言って債務をチャラにするのである。
個人的には、そんなのってないわ、と思う。大抵は免責が必要だろうが、中には、「え、なんでお前が。」という人もいる。
また、そもそも借金を踏み倒しても、強制執行さえ逃れてしまえば大したことにならない。強制執行を逃れることが容易なのは以前も日記にした。
まあ、ハッキリ言って、個人間の借金など踏み倒したもん勝ち。そんな殺伐とした話はよくきく。
感想2 今も昔も同じ回収方法
この本を読んでいると、借金だと徳政令でチャラになってしまうかもしれないから、貸す側が様々な対策をとっていたことがわかる。
特に面白かったのは、土地を担保にするということ。これは現在の抵当権のような発想だ。
また、借り手側の土地を、貸した側が買ったことにして、その代金を実質的な借金にしてしまうという発想もあった。これは所有権留保の考え方だったり、準消費貸借的な発想だ。
当然、今と昔がたまたま一緒というわけではなく、現代が室町時代から連綿とつながっている結果だろう。そう考えると、歴史の積み重ねを実感した。