大分市立美術館が「虚構と現実の間」という写真展をしていた。
蜷川実花の写真展で、CMでも良く流れていたし、周囲の評判も悪くなかったので、どんなものかと観に行った。
しかも、何と今日が最終日だったそうで、運は良かったと思う。
最終日なだけに人はそこそこ来ていた。
全部見終わった感想としては、正直あんまり面白くなかった。
まず最初の展示室では、アップで撮られた桜の枝と花の写真が床や壁に隙間無く貼られていた。
この部屋では写真を撮影しても良いので、パシャパシャとお客さんたちが写真を撮っていた。
「わー。桜の中にいるみたい!」と興奮している女性がいたが確かにそんな雰囲気だ。
青空、黒っぽい桜の枝、ほのかに赤い白い桜の花の色合いが鮮やかで、とても良い写真だとは思った。
本物の桜の名所にいっても、こんな写真は撮れないだろう。何せ、周囲360度、床一面が拡大された桜なのだ。
なるほど「虚構と現実の間」という雰囲気ではある。
次の部屋は、アップで撮られた草花の写真が沢山飾られていた。
非常に色のコントラストが強い写真が多かった。
綺麗な写真ばかりであるが、綺麗なだけで、特段これといった感想は持たなかった。
その次の部屋は有名人を写したコーナーのようだった。
背景が旭日だったり、原色の強い花だったりと、やはりコントラスト強めだ。
アニメの中に本物の人間が紛れ込んでいるような、そんな不思議な感じがあった。
その後、映像作品があったが、花やクラゲが重なり合いながらフェードアウトしたりなんだりの幻想的な映像だった。
そしてモノクロ写真の部屋にきた。女性が写っていたが、あんまり印象にない。
次の部屋はこれまたよく分からない部屋だった。
沢山のビー玉の上を金魚が泳いでいて、それをビー玉と連続した面上にいる人々が眺めているような写真。
その写真は展示室の壁一面を埋めるくらい大きい。
その写真の上に、アップで撮られた目だけの写真が、点在している。
虚構と現実の間というより、もう完全に虚構でしょうって気はした。
そこに現実感は見えなかった。
最後の部屋はコンクリートで固められた川に花びらを散らす桜の花の写真が沢山並べられた部屋である。
どれも綺麗は綺麗なのだが、どこかで見たことがあるような写真だった。
それに桜も水もピントがずらされていて、何が写っているのかもすぐには把握できなかった。
私は乱視なのだが、眼鏡を外して桜をみればこんな雰囲気だ。
正直、敢えて見たいと思わない写真だった。
そこで終わり。
何となく、常設展の受付の近くにある朝倉文夫の「憧れ」というブロンズ像が、とても安心して見られた。
虚構と現実の間というのは、こういうことなんじゃないかなぁ、と。
ブロンズという虚構で美しい人間の姿という現実を写す。
この写真展、写真はとても綺麗だったし、嫌いだと言うわけではないのだけれど、虚構と現実という雰囲気ではない。
写真が単なる虚構。むしろ素材。
そのため深みを感じるには物足りなかった(自分に感性が無いと言われれば反論できないが。)。
現実と虚構の間を作り出すのであれば、この素材と現実の何かが対応関係になければならないのだ。
その対応する現実がわからなかった。
蜷川実花は映画「さくらん」を取った監督でもある。
以前、地上波で見て、とても素敵な映画だと思った記憶がある。
なるほど、この映画も桜が重要な要素として登場しており、また、コントラスト強めの映画だった。
この映画では、まさに今回の写真展のような虚構が背景にありつつも、登場人物が物語の中で現実に動いた。
当然、その物語自体も虚構ではあるのだが、背景よりも虚構ではない。
そして物語自体は、登場人物の感情を描き、感情は鑑賞者と共有されていく。
鑑賞者は現実だ。
このように、段階的に虚構から現実に移行していく、その途中にある映画ないしはドラマ・物語、これはまさに虚構と現実の間だろう。
ここまできてようやく思いついたが、蜷川実花は、虚構と現実の間にある何かを、鑑賞者自身に作らせようとしたのではないだろうか?
「私は『虚構』を準備しました。あなたは『現実』。映画のときは間を私が作ったけれども、今回はあなたが作ってね。」
そう言っているのではないだろうか?
だとすれば今回の写真展はとても面白かった。
しかし、いかんせん、鑑賞者にはその間を作るには力不足すぎる。
そして結局、私は置いてけぼりにされたような気持ちになりながら、美術館の坂を下るのだった。
「大分市立美術館へ蜷川実花「虚構と現実の間に」展を観にいった感想」への2件のフィードバック