「大人になるにつれて心が汚れていく」とはどういう状態なのか?


今日、車を運転していたら、福山雅治のラジオ番組で割と衝撃的なリスナー投稿を耳にした。

概要、次のとおり。

父親から「お前が出来たから、愛情は無かったが、お前の母親と結婚した。」と告げられた。確かに父親も母親も互いに浮気をしまくっている。自分は恋愛や結婚は綺麗で大事なものだと思っていた。どうして大人になると汚れた恋愛をしてしまうのか? どうして大人になると汚れてしまうのか?

福山雅治の回答

正確性に難があるので、誤解があると申し訳ないが、福山雅治は次のように回答していた。「生きていけば誰もが心を汚されてしまい、その汚れを拭くと傷がつく。仕方が無い。その傷も大切なものになる。」というものだったように聞こえた。[1]こういう発言をする親に対する非難もあった。当然だと思う。これは心理的虐待ではないか?

個人的な検討

問題の分析

どうして大人になれば心が汚れるのか? この問題は難しい。難しい問題を考えるときは、答えを探すのではなく、問題が何を質問しているのかを考えるとよい。

そこで、まずリスナーが出した問題を次のように要約する。

子どもの頃は心が綺麗だったのに、どうして大人に成長すると、心が汚れてしまうのか?

「心が綺麗」とか「心が汚れていく」というのは抽象的でわかりにくい。もう少し具体的な言葉で言い換えられないか考える。

リスナーの問題提起は、「愛情がないのに結婚している。」とか「結婚しているのに浮気している。」とか父親(や母親も?)に対する非難が込められている。そして、読み過ぎかもしれないが「愛情がないのにセックスしていること」も許せないのかもしれない。

この非難の前提には、「愛情がなければ、結婚してはいけない。」「結婚したら、浮気をしてはいけない。」「愛情がなければ、セックスしてはいけない。」という意識がある。これらはとても常識的な感覚だ。この常識に反する行為や行為者は非難の対象になる。

これらの意識に共通しているのは「~してはいけない。」という禁止文ということだ。つまり、「人を殺してはいけない。」「物を盗ってはいけない。」などと同じ意識の種類ということだ。

禁止文は「常識」と言い換えても、許されるだろうし、より難しく「規範」と言っても良いかもしれない。法律家も、禁止されたことをやらない強い心を「規範意識」と言ったりする。簡単な言葉に直せば、「ルールを守る心」と言っても良いだろう。

ここまで考えてリスナーの問題を見直す。リスナーが言いたいことは、すなわち、

どうして子どもはルールを守る心が強いのに、大人はルールを守る心が弱いのか?

と言い換えることができるだろう。

ここで考えるべきことは、本当に子どもはルールを守る心が強いのか、ということだ。問題は大人の方にだけ隠れていたのではない。まずは子どもの方に謎を解くヒントがあるのではないか。

リスナーの主張の前提にあるのは

子どもはルールを守る。大人になると守らなくなる。それは何故か?

という問いである。

どうして子どもはルールを守るのか?

子どもはルールを守る心が強いのかという質問には「そうともいいきれないよね」という回答になる。

子どもがルールを守らないことはいくらでもあるからだ。時間を守らない。宿題を出さない。約束を破る。これらはルール違反と言われても仕方が無い。しかし、このような子どもはいくらでもいる。

他方で「子どもは大人よりルールを守るよね」という主張には漠然と共感できる。子どもだった頃の私も親がスピード違反をしたり、黄色信号に突っ込んでいったりするたびに、正義感を発揮して「なぜルールを守らないのか。」と言ったことがあった。そのたびに母は笑っていた。

何故、子どもはルールを守るのか? あるいは守ろうとするのか? それは、子どもに課されたルールは、怖い大人が作ったルールだからだろう。ルールを守らなかったことがバレると怒られるから。失望されるから。嫌な目に遭うから。大人から怒られなくても、子ども同士でも怒られるだろうし、絶交されたり、大喧嘩になったりするかもしれない。やはりルールを守らないと嫌な目に遭う。そういう集団の中に通常子どもは育つ。

だからルールを守ろうという気持ちも生まれてくる。子どもはルールに抵抗できないからだ。

大人はどうしてルールを守らないのか?

これも「そうとはいいきれないよね」という回答になる。大人であってもルールを守っているからだ。借りた金は大抵の人が返す。大抵の大人は人を殺さない。

これは実は子どもと同じ理由だ。もし借りた金を返さなくても、特に怒られたり、裁判を起こされたり、財産を奪われたりといった不利益がないなら、誰も金を返さない? 人を殺しても、死刑にならない、刑務所に行かないなら、あらゆる場面で人を殺さずにいられるだろうか? 「人を殺してはいけない。」というルールが作られたのは、そもそもルールで縛っておかないと人が殺してしまう危険な奴がいるからなのだ。結局、大人もルールを守らないと嫌な目に遭うから、ルールを守るのだ。

「大人は分かっていながら、ルールを破ることがある。それは何故か?」という問いなら、やはり共感できる。単純な話で、ルールにはなっているが、破っても別に嫌な目に遭わなければ、ルールを破ってしまおうと思うからだ。

結局、子どもも大人も同じ

私の母親がスピード違反をするのも、黄色信号に突っ込んでいくのも、結局、「この程度のルール違反で、どうなるわけでもない。」という経験からだ。日本中のどこで起ころうとも、誰が起こそうとも、全てのスピード違反に罰金を必ず課せば、誰もスピード違反を起こそうとはしないだろう。

子どももそうだろう? 約束を破ったり、時間を守らなかったりしても、なんとかなっている。多少怒られるかもしれないが、その場さえやり過ごしてしまえばどうってことはない。だから約束を破り、時間を守らない子どもが生まれる。

大人も子どもも本質的なところでは変わらない

大人と子どもの違いは経験だ。大人は破っても平気なルールと、破ると平気では済まされないルールの区別が分かっている。子どもはそれが分からない。どれも、怖い大人が決めたルールだから、一応守ろうとする。でも、子どもでも破って平気なルールだと分かっているルールならば、大人と同じく破る。そういうことだ。

個人的な回答

「愛情がなければ、結婚してはいけない。」「結婚したら、浮気をしてはいけない。」「愛情がなければ、セックスしてはいけない。」

こういった常識、ルールはある(と思う。)

しかし、「愛情なく結婚しても」別に罰金が科されるわけではない。「浮気をしても」バレないようにすれば問題ない。ましてリスナーの両親はお互いに浮気しているのだ。バレたところで慰謝料だの何だのという話にならず、結局お互い様ということになるのではなかろうか? 「愛情がなくセックスした」人も、その人が納得していれば嫌な思いをするわけではない。愛情のない料理でも、美味しい料理なら美味しいのだ。

これらのルールを守らなくても、大人は嫌な思いをしないことを、よく分かっている。他のルールについても同様だ。

子どもも大人も、別に良いことが何もなくてもルールを守ろうという気持ちが生まれることは否定しない。しかし、ときとしてルールを破りたいと思う気持ちが起こってしまうこともある。大人も子どもも一緒なのだ。ただ、子どもにはバレずに、あるいは怒られないギリギリのラインでルールを破ることが上手に出来ない。だから、子どもはルールを守らざるをえない。

だから、子どもの方が綺麗で、大人の方が汚く見える。それは表面にすぎない。私に言わせれば、子どもも大人も汚いことに変わりは無い

でも綺麗な部分だってあるでしょ(多分)。そういうもんなんじゃないかな? と思う。


References

References
1 こういう発言をする親に対する非難もあった。当然だと思う。これは心理的虐待ではないか?

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