裁判という制度は権力が生まれた有史以来、脈々と続けられていた。もちろん大きく形を変えながら。
かつての形をかいまみることができる、そんな本が
清水克行先生の『日本神判史 盟神探湯・湯起請・鉄火起請』中公新書、2010である。
かつての日本でも、ご多分に漏れず「有罪・無罪の判定を『神』に問う」(p.2)形の裁判、すなわち神判が実施されていた。
本書では、大きく4つの区分を行っている。古代日本の盟神探湯(「くがたち」などと読む)の頃、鎌倉時代を中心とする参籠起請、室町時代の湯起請、戦国時代から江戸時代の鉄火起請である。
参籠起請は神社等に一定期間籠もって、「失」と呼ばれる兆候(身内に不幸が出るとか、飲食中に人に背中を叩いてもらうほどむせるとか。)が出たら有罪という判定方法だそうだ。
その他は、基本、火傷するかどうか試してみるという方法のようである。
熱湯に手を入れたり、熱湯の中の石を取り出そうとするなどして、火傷したら有罪、無事なら無罪といった判定方法は、「ほんまかいな。あほかいな。」と思わざるをえない。
ただ、このような呪術的な観点からの批評に偏ることを本書は戒めている。
なるほど、良し悪しはともかくとして、神判制度のあり方が社会に果たしていた機能というものは確かにあるのである。
本書では、ムラという運命共同体の内部の団結を深めるために、誰かを犯人にせざるをえない発想があったことが示されている。
また、面白かったのは、裁判で証拠を出せない側の当事者が、自分達の本気度(信用性)を高めようとして、神判に持ち込もうとする発想があったのことである。
確かに、弁護士業をしていると、「証拠がないから泣き寝入るしか無いね。」と慰めるしかない事件も度々遭遇する。
そんなときに裁判所で湯起請実施申請ができるというのも制度としてはありなのかもしれない。
それで自分の依頼者が火傷した日には……。
いや、どうも本書によれば、危険を冒すのは、身代わり、つまり代理人でも良さそうなのである。
湯起請を実施する代理人になる場合、着手金としていくらぐらいを請求しようか……。
ちなみに、「手が火傷して農作業ができなくなる分、みんな援助してよな。」といって代表者が神判に臨んだという実話があるそうだ。
私も「手が火傷してパソコンが打てなくなる分、補償してくれよな!」という前提で、報酬を組み立てることになるのだろうか。
……私にはそこまでの覚悟はないな。
この本を読んで最も興味深かったのは、上記の神判制度にブームがあり、長い日本史というスパンでみると、断続的なかなり短い期間にそれぞれ実施されているということである。
本書では、神判が誤判だったことが明らかになり、急速に支持を失った事例や、当時の社会通念の変化を踏まえた分析がされている。
先程は、良い悪いは別にしてなどと言ったが、私としては、このような神判制度が決して長続きしていたものではないのだという点に、ある種人間の真っ直ぐさというか、合理的な精神が垣間見えることに、幾ばくかの希望を感じたいとは思う。
総じて、この本が大変面白かったのは事実である。
そのことを立証するために、参籠起請くらいはしてもいい気分である。
(仕事を休みたいという思いではない。)