ペシアンドロス
ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』加来彰俊訳、岩波文庫、1984年(以下「DL」)上巻87頁以下。
1 経歴
紀元前7-6世紀頃の人。コリントスの人。コリントスはギリシア本土の主要都市国家。海陸の交通の要衝でもある。
ヘラクレスに連なる家系ともいわれ、父はキュプセロス。リュシデという妻がいたが、彼は妻をメリッサとよんだ。リュシデの父がプロクレス、母の兄がアリストデモスで、この二人の親戚は大変な権勢だったという。
リュシデとの間にはキュプセロスとリュコプロンという息子が生まれた。キュプセロスは愚鈍な兄、リュコプロンは利発な弟として知られていた。ある時、ペリアンドロスは妊娠中のリュシデに踏み台を投げつけて殺した。これは側室らの讒言を真に受けてのことだった。(後に側室らは焼き殺された。)母であるリュシデの死を嘆き悲しんだ利口なリュコプロンは、ペリアンドロスの勘気を蒙り、ケルキュラ(ケルキラ)島に追放された。
ペリアンドロスは長い年月の後、自らの権力を継がせようと追放したリュコプロンを呼び戻そうとした。そうしたところ、ケルキュラ人はリュコプロンを殺してしまった。
怒ったペリアンドロスはケルキュラの子どもたちをリュディアに売り飛ばした。これはリュディア王の宦官にしようとしたのだという。
しかし、アナトリア半島にあるリュディア行きの船がサモス島に寄った時、子どもたちはヘラの神殿に逃げ込んで亡命した。
そのため、ペリアンドロスは落胆して死んだ。死ぬ時、ペリアンドロスは自分の埋葬場所を人に知られないようにするため、手の込んだ死に方をした。まず二人の若者にある道をゆくように指示した。その道の途中で会った者を殺し、葬るように命じた。また別の四人には、最初の二人の若者を負って殺すように指示した。その後、もっと大勢にこの四人を殺すように指示した。そうして彼は夜、二人の若者に指示した道に行き、わざとその二人の若者に会い、殺されたのである。二人の若者は指示通り出会った者を、夜道で彼と気づかずに殺し、葬った。その後、この若者は殺され、その若者を殺した者も殺されたのである。80歳だったという。僭主として40年間君臨したのである。
空っぽの墓には次のように刻銘された。
黄金と知恵とに富めるペリアンドロス
生まれし海辺のコリントス懐深く休みたり
2 エピソード
(1)
母親と近親相姦に及んでいた。そのことが周囲に発覚すると、誰彼構わず八つ当たりした。
(2)
四頭立ての馬車競技でオリンピックの勝者となった。「黄金の像を奉納する」と事前に誓っていたが、黄金が足りなかった。そこで、田舎の祭礼で女たちが身につけていた黄金を奪い取り、自分の奉納品にしてしまったという。
(3)
イストモスに運河を作ろうとした。
(4)
市内に自由に住むことを許さなかった。
(5)
護衛兵をおいたのは彼が最初だとのこと。
(6)
リュデイアで会合を持った賢者たちに向けて、コリントスにも招待する手紙を書いている。
(7)
ペリアンドロスは自分の妻を殺した後、自分の妻の父に手紙を書いている。その手紙には、妻を殺したのは、義父が自分の息子を私から引き離そうとしたからだとか、もう側室を殺して償いは済んでいるというような事が書いている。
(8)
トラシュブゥロスからペリアンドロスに書かれた手紙は次のような内容である。「あなたの使いに何を言いませんでした。ただ、麦畑に連れて行って、伸びすぎている麦を切り落とす様を見せました。あなたが独裁者として強くありたいならば、そのようにするとよいのです。市民の中で卓越した者があれば、あなたにとって敵であろうと味方であろうと取り除くことです。独裁者は、仲間であろうと疑ってかかってよいのですから。」
3 語録
(1)金のために行動するな。設けても良いところから儲けよ。
(2)僭主の地位の安全は、護衛兵ではなく、忠誠心によって守られよ。
(3)(僭主でいる理由を問われて)自分から辞めるのも、人に辞めさせられるのも危険だから。
(4)静かにしていよ。
(5)性急さは危険。
(6)利得は醜い。
(7)(不明)民主政は僭主政にまさる。
(8)快楽は失われるが、名誉は不滅。
(9)良い時は適度にせよ。悪い時は思慮深くあれ。
(10)順風な友人にも、逆風の友人にも同様に接せ。
(11)約束は守れ。
(12)秘密は守れ。
(13)罪を犯した者と同様に、罪を犯そうとしている者も懲らしめよ。
(14)練習が全てである。
所感
教訓自体はパッとしないが、エピソードが狂気じみている。これを哲学者として良いものかどうか。