怠惰なリヴァイアサンは食卓に上がる――神奈川県警の不祥事をきっかけにした雑考

川崎白骨化遺体事件

ストーカー被害を訴えていた女性が白骨化した遺体となって発見された。女性やそのご家族は何度も神奈川県警に被害を訴えていたようだが、その訴えが功を奏することはなかったようだ。

川崎白骨化遺体(2025年5月1日記事・集英社オンライン・2025年5月3日閲覧)

事実関係は今後明らかになっていくだろうが、警察の対応に問題があった可能性は高いように思われる。

早い段階でストーカー規制法が適用できなかったかなど、検証すべき点は多い。

 

被害者の関係者の動き

刑事弁護で禄を食む者でもある以上、推定有罪方向での論評は避けたいので、これ以上の事件自体の考察は載せない。

私がなお注目したいのは、事件直後の関係者の動きである。

被害者の遺族やその関係者らが神奈川県警への抗議活動を展開しているのである。

岡﨑さんの父親は「SOSを出したのに警察が軽くあしらってしまったのではないか」と訴えていて、神奈川県警川崎臨港署には親族や関係者など50人ほどが訪れ、ストーカー被害の対応に当たった警察官と話をさせるよう求めるなど抗議の声を上げました。

「行方不明の20歳女性の関係者ら約50人が“警察の対応”に抗議…警察官ともみ合いになるなど一時騒然 川崎市」(2025年5月1日・FNNプライムオンライン・2025年5月3日閲覧)

50人ほどが団結して何かをするということは、良い悪いはおいて、それなりの示威行為である。

彼らやその賛同者の「警察は信用できない」が「自分の身を守るのは警察ではない」という発想につながることは、それほど距離を要するものではないだろう。

そして、その発想が「自前の実力」(暴力といおうが、有形力といおうが、ここでは深く立ち入らない。)の必要性を見出すことにも、それほど時間を要するものではないだろう。

 

もっとも、これらの発想自体は陳腐とは言わないまでも、それほど珍しいものではない。

が、一般市民の間でその発想が広がることは、思想的な問題を私たちに突きつけることになる。

それが自然状態の問題である。

 

リヴァイアサン

トマス・ホッブスの代表作『リヴァイアサン』は自然状態から権力形成を理論化した古典的名著である。

 

人間は元来平等であるが、平等であるにも関わらず現実には多種多様な差異にさらされている。

平等であることを求める人間、あるいは平等以上の利益を求める人間が、他の人間に対し行う行為が闘争である。

闘争は原理的には全ての個々人が全ての他人に対して仕掛けるものであり、それ故に「万人の万人に対する闘争」と呼ばれるのである。

この原理的な状況がホッブスの自然状態と呼ばれる状況である。

 

ホッブスの自然状態に対する評価は極めて悲観的なものである。

したがって、各人が各人にとって敵である戦争状態に伴うあらゆることは、自己の力と創意によって得られる以外になんの保障もなしに生きてゆく人々についても同じように伴う。このような状態においては勤労の占める場所はない。勤労の果実が不確実だからである。したがって、土地の耕作も、航海も行われず、海路輸入される物資の利用、便利な建物、多くの力を必要とするような物を運搬し移動する道具、地表面に関する知識、時間の計算、技術、文字、社会、のいずれもない。そして何よりも悪いことに、絶えざる恐怖と、暴力による死の危険がある。そこでは人間の生活は孤独で貧しく、きたならしく、残忍で、しかも短い。

『世界の名著』23,中央公論社,1971. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2934600 (参照 2025-05-03)157頁・太字と下線は引用者)

 

そこで各人は自由を少しずつ放棄し唯一の主権者のみがその自由を行使するという選択を行う。

それが相互信約であり、その信約に基づいて自由を行使する者が主権者である。

 

ホッブスとしては、当時のイギリスにおける清教徒革命、内戦の経験を踏まえて、無秩序な自然状態を回避するための国家主権の正当化を目論むも著作だったろう。

現代の我々にとっては、仮に革命的、あるいは内戦、それにはいたらないまでも主権への信頼が揺らぐような場面で何が生じるのかを示唆する名著といえよう。

ホッブスがリアルな内戦を目の当たりにしたがゆえに、上記の引用は決して想像上のものではなく、リアルな経験に裏打ちされた警告といえるからである。

 

民衆が暴力を取り戻すということ

警察が信用できないときに、警察が「善良な私たち」を守ってくれないときに、では正当防衛の発想に基づき、自分たちが暴力を行使しようと考えるのは、不当なこととは言えないように思われる。

ストーカーじみた行動を繰り返す者に対し、権力の側が有効に対応できないのであれば、きっと被害者の「親族」「関係者」による「警告」「制裁」が一般化されるであろう。

今回の被害者遺族はよく自制をした結果、家族が殺されてしまった可能性のある事件である。少なくとも自分が信頼していたはずの警察から裏切られてはいる。その無念は計り知れない。このようなニュースを耳にして、誰もが警察を信じなくなることは自然のなりゆきである。

ただ、一般論として、市井において行われる警告や制裁がおよそ適正な手続きで行われるのか、妥当な範囲で行われるのかは不安でしかない。それは関東大震災のときの自警団による朝鮮人虐殺の例を引くまでもなく、我々が日常的に「間違った相手」にどのような反応を示しているかを振り返れば容易に想像できるだろう。

 

リヴァイアサンはユダヤ教の教えによれば終末において義人に供される食料なのだという。

今、我が国の公権力は食卓の上に載せられているのではないか。

 

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