ムスリム墓地で明らかになった日本人の差別意識
大分県の日出町はイスラム教徒の墓地問題で揺れている。
別府ムスリム教会が日出町に設置しようとした土葬墓地について住民が風評被害を恐れて設置反対の運動を起こし、町議会が設置反対の請願を採択するなど、甚だしい不見識がまかり通っている。
さらに不見識がその程度を増し、日出町は別の土地を紹介した。日出町や住民は元々墓地の設置予定地と水源が近いことを問題視していたにもかかわらず、代替地として紹介された土地は、元々の設置予定地よりもさらに水源に近いという意味不明ぶりである。
加えて日出町に隣接する杵築市に近いことから、杵築市の住民から日出町に対して抗議の声が上がっている。
そのような経緯をニュースで見るにつけ、日本人の寛容さなど嘘っぱちであるし、法治の精神などどこ吹く風の差別意識がむき出しになっていると思わざるをえないのである。
忘れられた土葬の文化
そもそも土葬は我が国においても極めて普通の葬り方だったのである。
今となっては消えていく文化となっているが、必ずしも特異な文化ではなく、日本においてしっかりと根を張った文化と言って良い。
そのことを豊富な事例から明らかにし、記録化しているのが、高橋繁行著『土葬の村』(講談社の紹介ページに飛びます。)だ。
本書を読むと、なるほど土葬文化が廃れていった理由は、土葬にまつわる様々な葬礼文化が実に手が込んだ文化、言い方を変えれば面倒な文化であるからに他ならないと思われる。
多くの人手、特殊な用具、しきたり、儀礼を経て行われる土葬のあり方は、現代一般的な火葬場に行って骨になったら拾って納骨という流れに比べると細かい作法の連続のようである。
インスタントな葬祭が流行った結果、土葬という文化の特殊性が際立ち、それが異質なものを許容しない島国根性と結びつき、排斥の対象となっていったのだろう。
インスタントな葬祭は、負担のない葬祭ということでもある。そういえば上皇陛下、上皇后陛下が火葬を希望されているのも、そういう時代の流れの反映なのかもしれない。
土葬文化の野辺送り
この国から土葬は消えていくのだろう。ますます土葬は特殊な文化になっていくだろう。本書をめくるたびに、私は土葬という文化自体の野辺送りをしているかのような気分にとらわれた。