「身体ばかり太って魂の痩せた人間を軽蔑する。諸君はそのような人間にならないように」
東京帝国大学経済学部教授にして、戦後、東大総長にもなった矢内原忠雄の言葉である。
戦前、大学を辞職せざるを得なくなった矢内原が「最後の講義」で述べた言葉とされる。
将基面貴巳氏の『言論抑圧 矢内原事件の構図』を読んだ。
1 矢内原事件とは
矢内原事件とは、概要、東京帝国大学経済学部教授であった矢内原忠雄が、彼自身の平和主義に基づいて、「国家の理想」という著作を世に出したこと、また「日本の理想を生かす為に、一先ず此の国を葬って下さい」と講演で述べたことなどが槍玉に上げられ、大学を追われたという事件である。
戦前の言論抑圧事件の1つとして知られている。
将基面氏は、この矢内原事件を題材に、当時の世情、東京帝大内の教授陣の対立構造、学長の資質、内務省等の省庁の関与を細かく記述している。
将基面氏が狙った矢内原事件の多面的複層的な叙述が、事件の「人間臭さ」を感じさせるものになっており、読み物としても面白い。
2 問題意識
(1) 愛国心の問題
将基面氏は政治思想史の学者だけあって、事件を踏まえた分析は思想的問題関心から行われている。
その1つが愛国心の問題である。
矢内原にとって愛国心とは「日本の国が掲げるべき理想を愛すること」だった(本書197頁)。これに対して「あるがままの国としての日本に対する愛」としての愛国心がおかれる(本書199頁)。
この二項対立はわかりにくいのだが、現代社会でも実によく観られる構図だと思う。
最たるものは憲法に対する考え方であろう。
私は日本国憲法は日本の理想像を背景にした法だと考え、概ね賛同している。とすれば、現実の日本の政治が憲法に大なり小なり反することになれば、これを修正すべく、国に対して批判を向けることは当然のことだと考えている。これが日本のためであり、これこそが愛国心の発露なのである。
他方で、憲法などという小うるさい縛りがあるから、日本はやりたいこともできず、世界に後れを取り、国家運営に支障をきたすのだという考えもある。現実のあるがままの日本を愛していないから批判的な言動ばかりするのだと憤る声もある。何より「一度決まった政治のあり方(≒国体)、方向性(≒政策)に異を唱えるなど非国民だという考えもあろう。この場合の愛国心とは国の決めたことのために、自分の身や心を捧げることといってもいいだろう。これこそが愛国心の発露である、と。
両者の立場の一長一短はともかくとして、矢内原事件はこの愛国心の在り方の違いが要因となったというのである。
以前、国旗損壊罪を制定してまで守らなければならない我が国の名誉(笑)についてという記事を書いた。
ここでも愛国心の2つの方向性の違いがあるのだと改めて気付かされた。
(2) 大学自治の問題
憲法上の問題として語られることが多い大学の自治だが、大学内部で大学の自治を守るための強力なリーダーシップが必要であるという分析がなされている。
というのも、教授会などというものに任せていれば、内部紛争で大学が弱体化するからだそうだ。
例えば誰とは言わないが、Twitterで積極的に発言をしている「教授」の一部には、自分の非を指摘されるやいなや、激高して賛同者を募って攻撃性を顕にしてくる輩もいる。
確かにこんな連中が1人、2人混ざっていれば、教授会が大学の自治のために結束することは困難になるかもしれないと実感する。
かといって、では大学の自治を守るという政治的な技術を要する活動を学部長や学長といった人間に集中させることが良いのだろうか。
学部長や学長が権力に寄り添い、権力に懐柔されてしまえば、大学の自治は一気に崩壊する可能性を秘めることになる。
今まさに、大分大学などもこの問題に直面していると言ってよいだろう。
参考記事:大分大学、学長“独裁化”で教授会と内紛…学長の任期上限を撤廃、ルール無視し人事強行(令和3年9月19日閲覧)
大学の自治を制度的に保障、それも多層的に保障する方策が必要なのだろうと思われる。
(3) 言論抑圧の認識
矢内原教授はある意味華々しく大学を追われた。
世間の人々も矢内原教授の辞職については知りえ、それ故にこれが言論抑圧の結果であると考えることができた。
他方で、戦前に行われた言論抑圧の実態は、言論を公表する場を奪われていくことであり、そうであるが故に言論を抑圧されていることすら告発できない状況におかれていた。
このように将基面氏は分析するのである。
まさに仰るとおりだと感じる。
表現の自由は最も重要でありながら、最も傷つきやすく、そして回復が難しいというのは、大学で法学を学んだ者であれば常識的な知識だ。
表現の自由は民主主義の価値を支える基盤であるが、すぐに萎縮してしまい、なおかつ一旦表現されなくなった場合、表現されなくなったことを批判することすら表現されなくなりやすいからである。
公権力はすぐに「適切な表現」「不適切な表現」という2分法を持ち込み、なおかつ公権力が定めた2分法こそが「正しい」という前提を押し付けてくる。
そう私も思っていたのだが、事実はもう少し深刻なようで、多くの国民も個人としてそのような偏屈な2分法に固執して生きているようである。
Twitterを見ていればよく分かる。
とすると、表現の自由を守れと国に述べるだけではやはり足りないのである。
表現の自由、あるいは「あなたとは違う見方があるのだ!」という表現は国民が相互に(可能な限りの礼節をもって)やりとりすることこそ重要なことなのだろう。