「疑わしきは被告人の利益に」から受け取る人生訓


疑わしきは被告人の利益に」という言葉がある。無罪原則や利益原則とも呼ばれる。

ずいぶんと昔からある原則のようで、Wikipediaではハンムラビ法典にも書いているそうだ。ホントかは裏をとっていないが。

また、この言葉の内容は歴史的に様々な変遷があり、また現在においても国によってその内実は変わっているのだろうと思う。

 

昔の中国にも利益原則の考え方はあったようだ。

いわゆる四書五経の1つ、書経には次のような言葉があるそうだ。

原文:罪疑惟軽、功疑惟重。与其殺不辜、寧失不経。

書き下し:罪の疑わしきは惟(こ)れ軽くし、功の疑わしきは惟れ重くす。其の不辜(ふこ)を殺さんよりは、寧(むし)ろ不経に失する。

意訳:ある人の罪があるか疑わしい場合でも、功績があるか疑わしい場合でも、その人に有利に取り計らう。無実の人を殺すよりかは、筋が通っていないと言われるほうが良いのだ。

(書経:大禹謨)

 

この表現について、北宋時代の天才である蘇軾は、次のように解説している。

原文:可以賞、可以無賞。賞之過乎仁。可以罰、可以無罰。罰之過乎義。過乎仁、不失為君子。過乎義、則流而入於忍人。

書き下し:以て賞す可き、以て賞する無かる可し。之を賞すれば仁に過ぐ。以て罰す可き、以て罰する無かる可し。之を罰すれば義に過ぐ。仁に過ぐるは君子たるを失わず。義に過ぐれば、則ち流れて忍人に入る。

意訳:賞しても、賞さなくてもいいのに、賞せば優しすぎてしまう。罰しても、罰さなくてもいいのに、罰せば正義感が強すぎる。優しすぎたとしても、立派な人であることに変わりはないが、正義感が強すぎると、すぐにでも残忍な人間に陥ってしまうだろう。

(蘇軾「刑賞忠厚之至論」より)

 

ちなみに、この蘇軾の解説は、蘇軾が受けた科挙の問題の回答文の一節である。この回答文はあまりにも出来が良すぎるために、カンニング等の不正を疑われて、本来成績順位が第一位であったところを、第二位に落とされたそうである。(猪口篤志『新釈漢文大系 第56巻 続文章軌範(上)』初版、昭和52年、192頁 参照)

(日本でも司法試験の憲法で満点をとった受験生が無事不正に手を染めたことが分かったという事件があった。)

 

さて、この漢文からは「疑わしきは被告人の利益に」という言葉の価値を改めて思い起こさせる。

それは、単なる功利主義的な捉え方よりも、味わいのある考え方である。

 

功利主義的には、次のように説明されることが多い。

無実の人間を罰してしまうとどうなるか? 真犯人は得をする。被害者は損をする。無実の罪で罰される人も損をする。真犯人を逃がした社会も損をする。

本当は犯人である者を罰さなければどうなるか? 真犯人は得をする。被害者は損をする。真犯人を逃がした社会も損をする。

無実の人間を罰してしまった方が、損が多い。したがって、無実の人間か、真犯人かわからないときには、罰さない方がいい。

まあ、理屈ではあるが、いかにも功利主義っぽい「そういうもんじゃねぇよな」という印象も否めない。

もちろん功利主義には功利主義の価値がある。アホでも説得しやすい便法だと思う。

ただ、功利主義的な見方を誤用すれば、「じゃあ、無実の奴でも罰した方が利益であれば、罰しても良くない?」という極めて冷酷な見方が導けるのである。

 

蘇軾が解説する中国の人文学の視点は損か得かではない。そこには数学的な冷徹さとは違う視点がある。

「あなたね。道理でも通しすぎると、残忍な人になっちゃいますよ。あなた残忍な人になりたいんですか?」とたしなめているように感じる。

疑わしきは被告人の利益にという原則には、「私が残忍なことをしないよう生きる」という人生訓が含まれているのである。

数字があるのではなく、人間がいる気がする。

私はこの感覚こそ良心だと思うのだ。

 

司法が法と良心にのみ縛られる裁判官によって担われるものであるならば、まさにこの良心と利益原則が繋がっていること、良心が実務に反映させるべき要素であることを実感する。

裁判官は残忍であってはならないのだ。残忍な裁判官を法は求めていない。

 

そして、究極的には主権者として司法に責任を負う我々も残忍であってはならない。冷酷であってもならない。

だっておそらく多くの我々はそう思っているだろうし、それを善しとしているのだから。


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