「過客」とは何かーーおくのほそ道の元ネタとの関係


「百代の過客」とは何か?

松尾芭蕉の『おくのほそ道』は、次の一文から始まる。

月日は百代の過客にしてゆきかふ年も又旅人なり

「月日は永遠に旅をする旅人のようなものであり、過ぎ去っていく年月もまた旅人だ。」

という意味で紹介されることが多い。

NHK for schoolの「おくのほそ道」紹介ページでは、「月日というものは、永遠(えいえん)の時間を旅する旅人みたいなもので、やって来ては去っていく年月も、やはり旅人のようなものなのだ。」と現代語訳されている。

 

昔から思っていたが、わかったようなわからんような哲学的な文である。解釈が難しい。「月日」は実際のお月様や太陽を表し、「ゆきかふ年」は時間経過そのものを表しているのだろう。ここまではいい。

そして、そのどれもが、「旅人」のようなものだという。ここがわからない。旅人という言葉を使って何を例えようとしているのか。空間的にあちこちを巡り巡っているという意味なのだろうか。そうすると「ゆきかふ年」という言葉との関係がよくわからなくなる。

 

この度、どうも「過客」という原文の言葉の意味を捉え損なったのではないだろうかと思うに至った。

「百代の過客」の元ネタ

実は『おくのほそ道』の冒頭文には元ネタがある。

唐の時代の大詩人李白の文である。題名を「春夜宴桃李園序」という。

題名を書き下すと「春夜(しゅんや)に桃李(とうり)の園に宴(えん)するの序」という。

現代語に訳すと「春の夜にモモやスモモが花咲く庭で宴会をしたことについての序文」ということになる。

誤解なら申し訳ないと予め断っておくが、春夜桃李序と、「宴」と「園」の音がバランスよく設置されている気がして、それだけで名文の予感を漂わせる。

 

この文は、李白が宴会を催した時に作られた詩の序文であり、集まった人々に対し作詩を促す内容になっている。この序文の最後は「もし詩ができないヤツがいたら、酒を三杯飲ませてやるぞ」と結ばれている。

さて、この序文の冒頭は次のようになっている。

夫天地者萬物之逆旅光陰者百代之過客。而浮生若夢、為歓幾何。

(書き下し):夫れ天地は萬物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり。而して浮世は夢の若し、歓を為すこと幾何ぞ。

(現代語訳):そもそも天地は万物を宿す旅館のようなものであり、(その中に来るものあり去るものあり)月日は永久に往いて帰らぬ旅人のようなものだ(いつまでも留まることはない)。そしてはかなき人生は夢のようなもので、短い生涯の中、歓楽をつくす機会がどれ程あるやら。

(現代語訳は猪口篤志『新釈漢文大系 第56巻 続文章軌範(上)』初版、昭和52年、104-105頁から引用)

こちらは『おくのほそ道』よりも解釈が容易に感じる。

「逆旅(げきりょ)」とは旅館とか宿屋の意味だが、これと「天地」とが、空間を表す言葉として対比されていて、「光陰」という時間経過を表す言葉が「過客」という時間経過を含意する言葉と対比されている。

ここで「過客」とは「往(ゆ)いて帰らぬ旅人」と訳されている。なるほど「過」には何かがあるポイントをこえるという意味があるが、「越」などと違い、こえたポイントを逆に戻ることは予定されていないようなニュアンスがある。つまり過客とは「出発したらもう二度と戻っては来ない旅人」というニュアンスがありそうなのである。

 

もう一度『おくのほそ道』を読む

「月日は永遠に旅をする旅人のようなものであり、過ぎ去っていく年月もまた旅人だ。」

という現代語訳を、

「月日は永遠に旅をする二度と戻ってこない旅人のようなものであり、過ぎ去っていく年月もまた旅人だ。」

に改めてみる。

そうすると、なるほど「月日」というのは単なるお月様や太陽というよりかは、四季自然といった移ろいゆくもの、そして同じ在り様は二度と生じない一期一会の現象という意味合いで解釈すべきだろう。そして「ゆきかふ」にもう「交差する」あるいは「あちらこちらからきて、またあちらこちらに行ってしまう」というニュアンスを読みとれば、「過ぎ去ってしまう」という意味合いになるので、「ゆきかふ過客」は重言(頭痛が痛い)になってしまうため、「旅人」という言葉になっているのだろう。

実に、移ろい往く一瞬を、端的に切り取る俳句の作品集に相応しい文ではないか。そして、当然旅人には松尾芭蕉自身を重ねている。旅先で死んでしまった先人のことを書いているように、自分自身も過客――もう帰ってこないかもしれない旅に出る――という印象も与えている。

感想

長年、よく分からなかった「おくのほそ道」の冒頭文がようやく味わい深い一文のように思えてきた。

「過客」という言葉の意味をよくよく考えてこなかったことが悔やまれる。

 

もっとも、私は松尾芭蕉のように「だから旅に出よう。」とは思わない。

むしろ李白のように「みんなで詩を作ろう。作らなかったら酒を飲ますぞ。」というノリのほうが好きである。


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