読書感想文 森本あんり『不寛容論 アメリカが生んだ「共存」の哲学』新潮選書


森本あんりの『不寛容論 アメリカが生んだ「共存」の哲学』を読んだ。

アメリカが独立する以前の植民地時代に活躍したロジャー・ウィリアムズという筋金入りの変人を中心に、「寛容」を考察している。

日本人は寛容か

私は常々感じていた。人口に膾炙する「日本人は多神教故に寛容な民族である」という言説は幻想である。

日本人は明治の近代化以降、単一民族国家、単一の歴史的経験、単一の思想、単一の経済成長、単一の喜びと苦しみを背負ってきたという感触がある。これが幻想であることは言うまでもない。しかし、現実として単一化の圧力は強い。出る杭は打つし、出ない杭は見なかったことにする。

「みんな仲良く」という規範意識だけではなく、「実際にみんな仲が良い」という現状認識を有している人が多いように感じる。

他方でこうも言えるだろう。異質なものが見えていない。見ようとしない。見えればこれを排除する。

ここ最近、我が大分県で如実にこのメンタリティが表れたのはイスラム墓地土葬問題である。

宗教上の理由から火葬を許容できないイスラム教徒が大分県日出町に土葬用の土地を購入した。ところが、墓地埋葬法上の土葬墓地の許可条件を満たしているにもかかわらず(したがって公衆衛生上の問題は生じがたい。)、町民が墓地設置に反対し、町議会も陳情を受けて町政を動かし、町長は未だに許可を出していない。

法律の下にある行政が許可を出さないのは端的に違法としか思えない。私のところにムスリムから相談があれば受けたいし、可能であれば代理人になりたいくらいの案件である。

本事案については、日本人の不寛容さを如実に表しており、恥ずかしい。

 

日本人が誇る寛容さとは「自分に嫌悪を抱かせない限りで寛容に接する。」というものにすぎない。自分に嫌悪を抱かせるものには激しく不寛容である。

裏を返せば、自分が好意を抱くものには寛容に接するという意味でもあり、そんなことは「古今東西の人類みなそうだろ。」としか言いようがない。一般的に無意味な言説である。

「お気に入りの異教徒をイジメなかったよ。褒めてよ!」と誇らしげにするのが許されるのはガキまでである。私はガキでも許さないが。

 

本書の主張と私の雑考

本書で森本先生は中世から続く「寛容」に関する議論を紹介した上で、ロジャー・ウィリアムズの寛容の実践を丹念に記述していく。

そこで紹介されている寛容論は「自分が気に入らない人・ものとも共存する。」という点に本質的な意味がある。あるいは「自分が間違っていると思う思想・世界観でも共存する。」というものである。

森本先生が度々指摘するのは、「気に入らないものでも受け入れる。」「間違っているものを好きになる。」という態度が寛容さではないということである。このような寛容論は「お友達を嫌いになるんじゃなくて、仲良くなりましょう!」という「小学校道徳」の授業が言いそうなことである。

そして、森本先生は、寛容を成り立たせる肝の一つは「礼節」だという。嫌いな人間でも礼儀正しく接することによって、ひとまずは共存することができる。私も、礼儀正しくする以上に、理解するとか、好きになるとか、そういった内面の変化を不要にするという意味で、重要なテーマだと思う。

 

森本先生は、この礼節という観点からすれば、日本人の寛容さは本来の寛容さの意味に近いと考えておられるようだ。しかし、私は上記の土葬問題を考慮すると、中々そうは思えない。

 

私は、寛容さをめぐる議論の中で一つ見落としてはならない問題があると考えている。それは「不寛容な者に対してもまた寛容であるべきか。」という問題である。これは「自分の気にいらない者に寛容であるべきか。」という問の一種ではあろうが、完全に同じ問というわけではない。おそらく「民主主義を攻撃する思想を許容すべきか。」とか「人を殺したいと思っている者を殺すことは許されるか。」などの限界事例と同じように考えるべき問題だろう。

個人的には「不寛容な者に対する寛容さ」は全く無意味に終わるケースが多いと思われる。なぜなら、そこには共通の理解や話合いの基盤を設置することができないためである。

このような問題に対しては、法と正義に基づく執行(もちろん法が不寛容であればという問題は残るが。)に期待をかけるしか私には思いつかない。というのも、話合いを重ねるだけの余裕がある問題ばかりではないからだ。現状を変更してしまい、不寛容さに不寛容さで対抗した時に、初めて弁証法的な新たな地平が見えてくるのではないかと感じている。

本書ではロジャー・ウィリアムズの著書『迫害を説く血まみれの教え』は「平和」と「真理」という名前の姉妹が対話する形式で書かれている。長い長い対話の最後のシーンにこそ、何かしらの光明があるのかもしれない。この点は機会があれば本書をお読みいただくとして、私としては、さて現実は常にこのような「長い時」を与えてくれるのだろうかという疑問を提示して終わりにしたい。


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