1 本書の呼びかけ
傷つけたとか傷つけられたとかいったことばかりの世界で、私たちは息が詰まっている。そろそろ深呼吸し、自由を損なわずに平等を擁護することを学び直そう。
(本書の「結びに」より)
実に力強く真っ当な呼びかけである。ただ、この呼びかけが必要な者に届くかどうかは心もとない。
この呼びかけはカロリーヌ・フレストの『「傷つきました」戦争-超過敏世代のデスロード』の結びである。
2 闘争の資格
世界には民族的アイデンティティ、性別、階級、出自等を理由とする差別が存在する。その差別と戦うことは重要だ。
戦う資格は差別の被害者のみにあるのではない。
例えば、女性差別に対して男性が声を上げることは意味のあることだろう。
また、ある人種に対する差別に対して、別の人種の人間が戦いを挑むことは当然に認められるべきだ。
歴史はそのように展開している。
例えばアメリカにおける公民権運動は、黒人のみならず白人も加わった。それが運動に大きな力を与えことはいうまでもない。
人種を超えたつながりをそこに見出すことができる。
キング牧師がキリスト教的な言説で結束を主張できたのは、アメリカの黒人と白人を結びつけるのが人種を超えたキリスト教だったということだろう。
そもそも差別される人間というのは、多くの場合少数派なのである。
もちろん貴族と一般民衆、金持ちと貧乏人などと差別被差別の人数が逆転する事象はある。
多くの差別は、少数者である。異民族、異教徒、異端、病者、障害者、性的指向。政治的な主義主張についても同様なことがいえる。
差別から解放される過程を考える上で、少数派というキーワードは重要である。
少数派が少数であるにも関わらず権利を勝ち取るためには、多数派の中から仲間を得るか、多数派の一部を好意的に沈黙させる必要があることが多いからである。
まして少数派が、少数であり続けることを重視し、なおかつ少数派に対する差別と戦い、自らの権利を獲得するというのは、ほとんど不可能と言って良いのではないか。
少数派が強力な武力を持つなどして、数の劣勢をくつがえさなければならないからである。
しかし、何故か少数派が少数であり続けることを重視し続け、少数派でない者が少数派のために戦うことに異議を唱えるケースがあるわけである。
本書においてフレストが厳しく批判するのは、民族的アイデンティティの擁護を掲げた反レイシズム運動の一部である。
最もわかりやすい例はダナ・シュッツの事例だろう。
ダナ・シュッツは白人の芸術家である。
BLM運動(日本ではジョージ・フロイド事件を契機に知られるようになった黒人差別に対する運動)に連帯した作品を発表した。
その作品は、1955年に白人による凄惨なリンチで死亡したエメット・ティルの棺と遺体をモチーフにした作品である。
「開かれた棺」”Open Casket”と題されたこの絵画は、エメット・ティルの母親が息子の凄惨な死を世間に公開した史実をなぞったものである。
この作品は一部の黒人団体から激しい非難を浴びた。要は「黒人の苦悩を利用して白人が利潤を得たり、楽しんだ」ということを理由としている。
この非難の最も重要な前提は作者が白人であること、そしてモチーフが黒人であることである。
このように、被差別者が、被差別者という属性を持たない者に対し、差別と戦うことについて非難するという一見すると奇妙な現象が生じているのである。
この他にも文化盗用の問題、大学における学生運動の問題等々が挙げられていく。
大学生が「セーフスペース」と称して他者との隔絶を望む声があるという話を読んだときには、呆れを通り越して恐ろしくなったものだ。
こいつは一体何をしに大学に来たのだろう・・・・・・?
4 連帯へ
重要な指摘は私たちが差別との戦いで連帯を基軸にしなければならず、分断の方向へいく活動は避けなければならないということである。
分断すれば孤立する。孤立すれば負ける。それはごくごく当然のことだ。しかし、負けるまでわからないというのもありがちなことなのだろう。
民族的アイデンティティを至上に掲げる運動に対する批判にとどまらない。
リベラル一般が陥っている病理である。
私たちは内ゲバしている暇はないはずなのだ。
被害者ポジションの椅子取りゲームがこの社会で蔓延している。そもそも差別の被害者が反差別闘争を通じて社会の分断を生み出している現状をどう考えるべきなのか問われている。
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