読書メモ『鎌倉仏教』平岡聡


大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は毎週欠かさず観ている。Twitterでも大盛りあがりだ。みんな鎌倉時代が好きなのだろう。

ドラマでもよく僧侶が出てくる。が、あまり宗教的なことが描かれることはない。例外は運慶だろうが、それも宗教家というよりかは、人生訓を述べる職人のような立ち回りである。

 

ドラマでは影を潜める宗教色であるが、鎌倉時代は様々な仏教の宗派が活躍し始めた時期でもある。

平岡聡『鎌倉仏教』令和3年、角川選書は、当時の伝統仏教(主に比叡山延暦寺)を正統仏教としたときに、異端とされる宗派、すなわち臨済宗、曹洞宗、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、時宗を取り上げ、これらがどのように正統仏教や他の宗派に理論武装していったのかを記述している。

筆者は浄土宗の僧侶であり、仏教的なものの考え方はそうなのかと興味深く読んだ点は多い。一見すると仏教的な話は小むづかしい話のようではあるが、「専修」という概念をキーワードにした記述が読みやすくしている。

「専修」とは例えば臨済宗・曹洞宗であれば座禅、日蓮宗であれば唱目といった、仏教の根本に関わる修行方法である。筆者によれば、この専修には、様々な修行方法や思考方法を削ぎ落とし、修行を簡単なものにしていったという側面よりも、むしろ専修の中に正統仏教や他の宗派を取り込む普遍的な要素があるという指摘なのである。

確かに、例えば曹洞宗の栄西が典座教訓で指摘したように、座禅修行のみならず行住坐臥が修行になっているという在り様は、座禅という特殊な行為の中から普遍性を展開するという非常にアクロバティックな考え方が内在している。一見異端に見える特殊の中に、普遍化の芽が生じていること、そしてその発芽成長のエネルギーはとても大きいものであり得ること、それがよく分かる良書だと思う。

 

本書は、仏教史の観点から眺めるために、宗教色を除いた歴史とのつながりは必要以上には触れられていないし、筆者の目的もそこにはない。

ただ、あえて宗教という視点を離れた時に、主義主張・思想信条、あるいは昨今さほどの影響力を行使できずにいる「世界観」というもののことを思った。

今となってはGood Old Daysに、共産主義の未来を空想したこともあった。それは確かに希望であって、ただ生きるだけのエネルギー以上の活力を与えてくれたように思う。

混乱や停滞、退廃を良かれ悪しかれ打破するのは、そのようなエネルギーなのだと思う。が、昨今はそのようなエネルギーが社会のあちこちで燃え上がっているようには見えない。ホタルの光のように弱々しく見えてしまう。

 

このような情勢の世の中で、我々はどうやって活力を得ればよいのだろうか。(そもそも得るべきなのか。これはなかなか難しい質問である。)

本書は一つの大きな示唆を与えている。鎌倉新仏教には、論理に飛躍があったり、牽強付会な点もないではない中、それでもなおエネルギーを持ち得たのは、「宗教体験」であるという。

理屈に先立つ体験の存在。これである。そしておそらくどういう内容であれ、そのような理屈を超えた体験のことを、奇跡というのだろうと思う。

なるほど、我々が「進んでこの社会を何とかせねばならない。」と思うには、奇跡が必要だということなのだろう。


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