読書メモ:中西政次『弓と禅』――本当に面白いことは本には書いていない


1 同じ書名をつけるな!

2週間ぐらい前、Youtuberのアバタローの動画が流れてきたのでついつい観てしまった。オイゲン・ヘリゲルの著作『弓と禅』の紹介動画だった。これは中々面白そうだと思って入手した。

ところが、読んでいてなんだか変だなと思ったら、オイゲン・ヘリゲルではなく中西政次という人が書いた同名の書籍『弓と禅』だった。

以前、森まゆみの『暗い時代の人々』でも批判したが、名著と同じ名前の本を出すのは止めていただきたいものである。よく確認しなかった私が悪いのだが。

 

2 中西版『弓と禅』のあらすじ

で、もったいないから読んでみた。

前半は、中西政次氏の半分自伝のような話である。中西氏は、若い頃から仏教に関心があったようで、座禅を組んでみたり、本を読んでみたりと色々していたようだが、ある日、弓道に出会い、師匠の鷺野暁に入門することになった。

そこで、無影心月流・弓禅一味の指導を受けながら、徐々に高い見地に至っていくことを実感していき、最後は「俺たちの修行はまだまだこれからだ!(完)」(意訳)で終わる。

巻頭言を書いたのは、あの少しでも禅に興味がある人なら知らない人はいないであろう山田無文老師である。豪華だ。

 

53歳で学校の校長をしながら弓道の修行に励み、高い境地に達していったことは、中々すごいことではある。

一応、師匠にも原稿は見せているようだから、まああんまり盛った話も書いていないのだろう。

 

後半は、無影心月流の開祖である梅路見鸞(うめじ・けんらん)の著作のまとめや、中西政次のエッセイ集のようになっている。

 

3 感想――読了直後

もったいないから読んでは見たものの、内容は、まあふーんというところだ。正直弓道のことは何も知らないし、専門用語に注釈がついているわけでもないので、半分以上は理解できない。ただ、まあ弓の修行と禅の修行が関連していて(というより一体のものであって)、どうも宇宙と一つになったらしい。それはそう思うのであれば素晴らしいことではないでしょうか。

一輪挿しから紅の山茶花の花びらがこぼれていた。捨てようとして数片を掌にのせた。見れば見るほど、その色は鮮やかに、しかも厚みを増して宝石の如く光り輝いて見える。」(89頁)から始まる11月24日の経験談は中々の名文である。

 

おそらく弓道に限らず、色々な道も極めればこのような心境に達することができるのだろう。弁護士業をしていてもどうも開眼する気配はないが。

 

4 感想――今

と、ここまで書いて投稿しようと思っていたが、著者や流派、師匠のことを調べていると中々面白いネット記事に行き当たった。

この著者の中西政次氏、この本を書いた後、順調に階級(段位?)を上げていったようだが、最終的には師匠の鷺野に破門されたそうだ。

古武術を研究する大家である甲野善紀氏のTweetを引用する。

 

甲野が指摘するとおり、中西正次は『弓と禅』の中でとにかく師匠は素晴らしいと記載しまくっている。まあ、確かにすごい人なんだろう。ところがそんな師匠を踏みつけにするような行動を・・・・・・。

 

さらに調べるとこのような記事もあった。

(参照:師範日誌「本当の強さ ②」(2011年7月18日)(2023年8月13日閲覧))

この記事によれば、中西は弟子達(門人)の会の会長をするようになり、日本弓道連盟と交流することを計画していたところ、師匠の鷺野から破門を警告されたようである。中西らの流派は他流との交流を禁じていたのであろう。実際、現在でも無影心月流はありそうだが、他流との試合には出ていないようである。どこに道場があるかもネットからはわからない。

そして、それが原因かどうかはわからないが、どうも良からぬ思いが出てきたようで、ある日、門弟の一人に次のように言い放つ。

わしはもう師範を超えておるんだ。師範は弓ばかりやった人だ。梅路老師とは違うんや。わしは禅と弓の両方で悟った。だからその辺の所はよくわかるんや。わしは間違ってはいない。間違っているのは師範の方や。あの人は弓の側からしか道を見ておられんのや。これでは片手落ちや。これでは究極の悟りが得られない。わしにはそれがある。心月会の連中はその事に気付きだしたんや。」

なんでもそうだが「俺は悟った!」という人ほど悟ってはいない俗物であることはほとんどだろう。このセリフもまさにそれである。

これに対する鷺野の評が

「例えばはしごをかけて屋根の上に登るとしよう。下の方の一段目や四、五段目位までは何でもないわな。仮に踏みはずして下に落ちたとしても、ああ、びっくりした、ですむわな。また気をとりなおして一段目から登りなおせばいいんや。それが上に行けば行くほど危なくなる。落ちやすいし、落ちたらおおごとや。落ちるときは地面まで落ちるからな。更に、てっぺんまで登って足が半分屋根の上にかかっている所で落ちたらどうや?全然違うわな。ショックが……。落ちるときは一瞬や。それで、どうにも立ち直れんようになってしまうんや。だから、上へ行けば行くほど、よほど気をつけにゃならんのや。

これは良いこと言うわ。

まあ、ネット記事からなので真偽不明で原典にあたる術もないので、上の引用も全て真偽不明であるということは留保したい。ただ、どうも無影心月流に深刻な混乱があったのだろう。

 

いやはや。何かを得れば得ただけ気をつけなければならないが、得ずにはおられないというのが辛いところだ。どうも中西政次氏は平成9年に亡くなられたそうだが、亡くなるときはどのような心境だったのだろうか。それを知る術もない。

最後に臨済録から引こう。

求心やむ処即ち無事

この言葉については以下を参照のこと。

そのままでいいのか


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