読書メモ:オイゲン・ヘリゲル『弓と禅』――ナチスの影


オイゲン・ヘリゲル『弓と禅』稲富栄次郎・上田武訳、福村出版、1981年、改訂版を読んだ。

 

1 あらすじ

神秘学に関心を持つドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲルは、自身の探究心を満足させる道が禅宗にあることを期待しつつ、東北帝国大学に赴任する。そこで、同僚教員から勧められた弓道、そして弓聖とも呼ばれた阿波研造に出会うことになる。弟子入りしたヘリゲルは、師匠にときに反発し、ときに感嘆しつつ、強弓を引くための呼吸法、無心で弓を引くことなどの修行を通して、自身の境地を高めていく。

そこである日私は師範に尋ねた。「いったい射というのはどうして放されることができましょうか、もし”私が”しなければ」と。

「”それ”が射るのです」と彼は答えた。(92頁)

 

すなわち弓と矢と的と私とが互いに内面的に絡みあっているので、もはや私はこれを分離することができません。のみならずこれを分離しようとする要求すら消え去ってしまいました。というのは私が弓を手にとって射るや否や、一切があまりに明瞭で一義的であり、滑稽なほど単純になるのですから……(110頁)

2 所感

ドイツに帰ったオイゲン・ヘリゲルは西洋社会に日本の禅を広める役目を果たしている。それはこの『弓と禅』を出版することによってである。

禅境なるものを得ていないので、的外れかもしれないが、たしかに欧米人が”Zen”と呼びそうな表現がここかしこに記載されている。その上、弓道という日本の伝統的な武道を通して描くことによって、オリエンタルなロマンを感じさせる作品になっている。

 

他方で、ヘリゲルについてどうしても触れなければならないのは、彼とナチスの関係だろう。彼は1937年にナチスに入党して、戦後、ナチズムへの「消極的な同調者」と認定されている。この事実は『弓と禅』に一切記載されていない。作為的なものを指摘する向きもある。(参考:山田奨治「オイゲン・へリゲルの生涯とナチス : 神話としての弓と禅(2)」

 

当時のドイツにおいてナチズムに対抗することが、どれほどの困難を伴うものだったのかということを想像するとき、「ヘリゲル」=「ナチ」=「その言説の一切が無価値」という図式を描くことには慎重にならざるを得ない。他方で、「ヘリゲル」=「禅の実践者」=「その言説は精神的に価値がある」という図式に期待するのも危険であろう。

 

禅が平和の宗教として称揚される向きがある一方で、禅に造詣が深い者であっても、ナチスという巨悪に抗うこと、もう少し大きく時代の流れに抗って何か「善いこと」を目指すことは困難だということに留意してもよいだろう。そもそも禅が何か「善いこと」を目指しているのか、目指しているとしてそれがどのような「善いこと」なのかなどは問題になるのだろう。

禅を学ぶアプローチから、世界平和や戦争といった問題を考えたり、私達がどう殺し合わずに共生していくのかという問題を考える場合、思わぬ陥穽があるのではないだろうか。

仏教はどこかしら「諦める」ことを受け入れるアプローチがあるように思われる。それは本来の仏教としては誤解なのかもしれないが、一方で人口に膾炙する仏教論では「四苦八苦」「四諦」「出家」「心頭滅却」などという言葉からは、そのような印象が生じることは否定できないだろう。しかし、我々は「どうせ世の中は不平等だ」「世界は弱肉強食だ」と達観しながら「諦める態度」を良しとするのみではいられない。

あのユダヤ人の虐殺や、ガザの虐殺を思う時、そして自分たちが戦争へと続く大きな流れに巻き込まれようとする時、激流に巻き込まれつつある「私」を捨てさせたり、捨てたりすることは善くないと大声で主張する必要があるのではなかろうか。というのも、今まさに殺されようとしている人、殺されようとしている自分を、禅も武道の精神が救うというのは、他の救い、人々の共生を可能にする仕組みを、覆い隠すものになってしまうのではないかと思うのである。

それはまさに、ヘリゲルのナチスの経歴が出版物から平然と覆い隠されている様子が象徴しているようにも思われる。

 

ちなみに、同名の書籍についても以前記載した。

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