ジェリー・トナー著(橘明美訳)の『奴隷のしつけ方』を読んだ。
マルクス・シドニウス・ファルクスという架空の古代ローマ貴族が記した体裁になっているのが面白い。
個人的に印象に残ったエピソードを3つ。
1 借金が返せないと奴隷になる
多額の借金を理由に「自分自身を売る」ことで自由民から奴隷に身を落とすケースがあったそうで、いやはやこれが法的に認められていたというのだから恐ろしい話である。
同じローマ人を奴隷にすることには相当な抵抗感があったらしく、海外に売るのが一般的だったそうで、それはそれで本人にとって良いことなのか悪いことなのか……。
なお、日本社会では自分自身を売るような契約は公序良俗違反になるだろう。
ただ、自分自身を指揮命令できる時間や権利を売ることは労働契約を代表に認められている。
それに労働契約等を締結していたとしても、奴隷的な扱いは許されない。
まして借金を返さなかったからといって、奴隷になることは許されていない。
つい2000年前の社会とは大違いだ。
ちなみに、日本史における借金の取扱いについては、以前「徳政令」に関する本を読んだ感想を書いた。
2 サトゥルナリア祭――古代ローマの無礼講祭り
奴隷は日常生活においては「言葉を喋る物」として非常に抑圧された生活を余儀なくされていた。
ただ、年に一度のサトゥルナリア祭と呼ばれる祭りでは、社会的な上下関係やしがらみが崩され、自由な無礼講空間が出現していたそうである。
この日は皇帝の彫像に不敬を働いても許され、卑猥なジョークが飛び交うなど、なんとも乱痴気騒ぎだったのだろう。
ただ、この祭りの期間に羽目を外しすぎると、日常生活に戻った時に主人が奴隷に厳しく当たることもあったようだ。
こういう事例を聞くと、現代と変わらないなという印象を持つ。
上司の「今日は無礼講だから。」を信じた新入社員は下手を打つ。
また、このような乱痴気騒ぎに馴染めずに祭りの間は家に閉じこもる人もいたそうだ。
なんとも親近感を覚える陰キャではないか。
3 主人が殺されたら連帯責任で家中の奴隷を処刑
古代ローマの法では、主人が殺されたときに同じ屋根の下にいた奴隷は処刑されるのだそうだ。
それは奴隷が命をかけて主人を守らなかった罰とされている。
ただ、当時でも「同じ屋根の下」にいるという要件の解釈として、「物音や声が聞こえる範囲」などと解釈が限定されていたり、毒殺は除外するという解釈が行われていたようだ。
これは要するに「助けに来られた状況にいたのに、助けなかった」という点に非難可能性を見ているからだ。
こういう解釈論が古代から人間の営みとして続いているから、法学にもロマンがある。
ただ、適用される奴隷はたまったものではなかっただろう。
ある資産家が奴隷に殺された時は、同じ屋根の下に400人もの奴隷がいたそうで、みんな処刑されたそうだ。
当時のローマでも非難の声が上がったようだが、「奴隷に甘くすると社会が揺らぐ。主人たるローマ人の安全が脅かされる。」という理由で、結論が覆ることはなかったようである。
実に古代社会とは現代社会と比べ物にならないほど残酷なものだと実感した。
現代社会もなにかのきっかけですぐに古代社会のような残酷さが顔を出すのではないだろうか。
たった2000年で人間が変わるということはないのだろうから。
ちなみに、日本の奴隷についての本も以前読んだ。