ネタバレあり きづきあきら・サトウナンキ『まんまんちゃん、あん。』の感想・考察


きづきあきら・サトウナンキの『まんまんちゃん、あん。』を読んだ。

現代のお寺を舞台とし、恋愛をテーマにした漫画だ。

 

主人公のめぐりは、貧乏子沢山な家の子どもの一人。知人の働きかけでお寺の跡取り息子信玄と結婚することになる。ところが新婚早々にめぐりは信玄と死別してしまう。その後、信玄の弟の一円、住職の弟子の恵春、檀家総代が送り込んできた新たな跡取り候補者慈恩との間で、めぐりは寺の関係者を巻き込む愛憎劇を演じることになる。

 

この漫画は私達に「強いられた恋愛で人は本当に幸せになれるのか?」という問題に一つの回答を与えてくれている。この問題は次のようにも言い換えられるだろう。「その人と恋愛する他に選択肢がない恋愛で、人は本当にその人のことを愛することができるのか?」

めぐりは、家の貧しさから、嫁ぎ先のお寺しか現実的な居場所がない。そんなめぐりを知っているので、信玄は「めぐりのことは好きだ。しかし、めぐりは自分を好きで結婚するわけではない。自分と結婚するしか選択肢がない少女だ。だから、手は出せない。」という思いを抱いている。

他方で、めぐりは本当に結婚前から信玄のことが好きだ。そのことは、信玄との最初の出会いのときから、めぐりが信玄に惹かれている様子で描かれている。

信玄が死んだ後、めぐりは信玄の思い出とともに生きていくことを望んでいる。そのためには寺から追い出されないように寺の新しい跡継ぎと恋愛関係にならなければならない。そのため、三者三様にめぐりに好意を持つ一円、恵春、慈恩のアプローチに、めぐりは、お寺に残るためにはどうしたら良いかという思考で対応する。それは煮えきらない一円に抱かれようとするとか、強姦DV男である恵春の暴虐に耐えるなどといった悲惨な形をとる。

 

結局、めぐりは寺に残るためには、一円、恵春、慈恩のいずれかと恋愛をするしか選択肢がない。そんな状況で、めぐりはこれらの男たちのことを本当に愛することができるのだろうか? そういう問題に直面するのである。

この作品の一つの回答は割とシンプルだ。この男しかいないとしても、その男を本当に愛することはできる。でも、自分自身が本当に愛していると自覚すること、自分の感情を信じることは難しい。そういうことだ。

生活のために置いてもらっている。寺を守るために必要とされている。そのような「相手が好きだから。」以外の恋愛・結婚の理由が目についてしまう生活の中では、「私はあなたのことが好きだ。」と考える自分のその考え自体が嘘っぽく聞こえるし、そう言われても白々しく聞こえてしまうのだ。これは相手に負い目のある恋愛でよく見られる光景だろう。

では、こういう状況で「本当に相手が好きだ。」と自分自身を信じるためにどうしたらよいのだろうか。その問題にもこの作品は回答を与えている。それは「一度離れる。」ということだ。一度離れて、全ての必要性、負い目、恋愛をするための理屈を捨て去って、それでもなおその人のことが好きだと思い続けられるなら、そのとき自分の感情を信じることができる。

一円は物語の最終盤で、自力で跡継ぎ問題を解決し、めぐりに寺から即刻出ていくように告げる。めぐりは寺から追放された形になるが、それによってめぐりは寺から生じる様々な束縛から逆に自由になるのである。その自由なめぐりが、再び一円と出会い、改めて恋に落ちる(いや恋を自覚する)ことによって物語は一応の決着を見せるのである。

 

「結婚相手はあなたでなくても良かった。でもあなたを結婚相手に選んだ。」そういう感覚の下で「だってあなたのことが好きだから。」という答えが自然と湧き上がってくるのだろう。

 

「別れて初めて、別れた相手が好きだったことに気づく。」こういう状況を敢えて作ることによって、相手も自分も救済するというなんとも際どい、なんともハッピーな物語に落ち着いたのではないかと思う。

きづきあきら・サトウナンキはこういう物語を書くのが上手い。ちょっとめぐりが不憫すぎる感じはあるが……。

 

きづきあきら・サトウナンキの作品には、他にも『さよならハルメギド』がある。こちらについても記事を書いている。


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